第3話 波頭の薔薇
行列が動いた。
真っ白な毛皮を纏った看護婦が、兎の尾のように流れてきた。彼女の周囲を後光のように漂う消毒薬の匂いは、群集を正気付かせ、一時的に混乱が治まった。彼女の手にしたプラカードには、こう書かれている。
「ただ今の待ち時間。三時間」
彼は傍らを過ぎる清涼な香りを大きく吸い込んだ。そして、自分の境遇を振り返り、力なく頭を振った。彼は自分自身を顧みる時、決まって溜息をつき、頭を振る。 思い出すに、甲斐の無い人生。しかし、自分にはそれしかないのだという諦めが、彼に年齢以上の沈着さを与えている。
彼の故郷は海を隔てた小さな島だった。だが、その場所に見切りをつけたのは、自分の故郷が島であるという事を知る以前の話だった。彼は家を出ようと決め、初めて海を知った。
「波頭の薔薇」
という種類のレース製作に従事していた両親は、長男だった彼に仕事を覚えさせようとしたが、生憎、彼の指先は両親の希望通りには動かなかった。周囲の失望を感受した途端、彼は自分の居場所を失った。
金持ちがいくらでレースを買うのかは知らなかった。生活は苦しかった。彼は窮乏する家を出なければならない事を悟り、両親は止めなかった。三等客室の匂いと揺れとは、彼の心に深い傷を負わせた。目の前に霧が漂い始め、彼はこの国へ降り立った。それ以来、彼の視界から霧の晴れる日は無かった。
彼は勉強に精を出しながら、好奇心の欠如を自覚した。金時計を受領したが、職工への紹介状を手にする事は出来なかった。かといって、学校に残る算段を採る情熱も無かった。
この街に舞い戻ったのは、この匂いのせいかもしれないと男は思った。それは忌まわしい三等船室の匂いに酷似していた。
彼は広場の噴水に腰を下ろし、「串刺し王の玩具」の奇観を鑑賞した。
一階から三階までの基壇部は、病気のトウモロコシのような形に積み重ねられた花崗岩で、風化した壁肌は、白癬のような模様に覆われている。そして、乳白色の粒子が浮遊する蒼い中空には、挑発的に煌めく三本の長大な槍が揺らめいていた。どうした加減か、この槍の反射は時として眩惑される程に強かった。塔の名称は、まさにその三本の長大な槍に由来していた。
長い間、風雨と盗掘の危険に曝され続けていたにもかかわらず、基壇部のさらに三分の二を超える長さを誇る三つ叉の槍が、現在に至るまで視界を圧する反射光を発する奇跡は、霧深く光に乏しい街中にあって妖気すら漂わせていた。陽光とも月光とも違う、温度も色も無い光に彼は魅入られていた。そのうち、上空に染みのような物が現れた。真中がくびれていて、女のような形をしていた。彼は、光を見続けた為の残像だと考えた。染みはふらりふらりと漂いながら、塔の屋根に張り付き、二三度腰を振り立てると、唐突に消えた。鳥以外に空を飛ぶ物は、虫か蝙蝠しか無いが、染みはいづれとも違う形をしていた。
「幻覚まで結ぶようになった。俺ももう長くは無い」
彼はそう考えて、自分が辿ってきた道を思い返した。それが最初の自省だった。それ以来、彼は飽くことなく追憶し続けていた。
のんびりと空を見るのは天文学者か、奇跡を待つ司祭の類だけであった。いづれもこの街とは無縁の職業だ。貧民は路上に落ちているかもしれない銅貨や残飯を探すか、通行人を値踏みするばかりだった。金持ちはもっと性急な娯楽を求めていた。空を眺めようなどという物好きは、すぐさま怠け者と罵られ、狂人扱いされた。
学士だからと気を良くして宿を貸した女主人は、牛の体に棍棒の四肢を持ち、山羊の目と懸巣の口を持っていた。耳は年増女の純正品で、彼は引っ越した翌日から後悔し始めていた。
彼は未来に一筋の光明をも見い出せなかった。目の前を粉ミルクのような白い粒子に隈取られ,傍らを行き過ぎる人も街路樹も、全ては白の濃淡でしかない。こうした世界に生き続ける意志を失ってから、彼は固い寝台を自分の棺桶と定めた。
女主人は彼の惰弱を嘆き、薪割り、水汲み、模様替え、家畜の世話などを任せてきたが、全て満足に出来なかった。若く学もあり、見たところ健康そうな彼を、女主人は病気だと決めつけ、屋根裏部屋に閉じ籠もろうとする彼に昼夜を問わず「医者にかかるように」と勧めた。
彼はしつこい勧誘を拒否する事に疲れ、とうとう折れたのである。そしてようやく、順番が回ってくる今朝を迎えたのだ。
彼は遅々として進展しない行列の一員となり、か細い太陽の落とす影の動きを追いかけるのに忙しい。かつて眺めた空は無い。圧倒的に聳える街区と、張り渡された洗濯物とが、空を完全に塞いでいる。
「もっと高い所へ行きたい」
と彼は思った。ここはあまりにも底辺でありすぎた。周辺に高い建物がひしめきあえばひしめきあうだけ、人間は卑小になり、底で蠢く虫のようになってしまう。
背後に、全身全霊で樫のステッキに縋り付いているフロックコートの老人がいた。行列の振動で老人を折らないように、彼は細心の注意を払った。老人はすまなさそうに帽子を取って会釈したように見えた。だが、会釈した老人の頭は彼の肩に乗り、曲がった腰が彼の背中にはまり込んだ。彼は老人を背負って、ひたすら受付窓口が現れるのを待った。
「只今の待ち時間 四十分」
看護婦がにこやかに列の脇を歩いていく。彼は覚えず腕に目をやったが、そこに時計は無かった。先月、家賃の代わりに女主人が取り上げていったことを忘れていたのである。様々な肉体奉仕をさせておいて、給金は愚か家賃の割引さえしなかった女主人のがめつさ、それにも増して、彼女が彼に功徳を施してやっているのだという自惚れが、たまらなく不快だった。
「時計だけではない」
彼は自分が供出した様々な物品や尊厳を思い出そうとした。だが、他には何も思いつけなかった。彼は拍子抜けするような、何となく恐ろしいような妙な気分になった。
街路の舗石は様々な物が踏みつけられ、踏み締められ、踏み固められていた。
「久しく通わない内にこの街区もすっかり色褪せたものだ」
と、彼は改めて感慨しながら、無意識に背広のポケットを探った。煙草を探すしぐさのようだった。しかし彼は煙草を嗜まない。それだけの税金を支払う能力が無いのだ。仮にゆとりがあったとしても、買い置きが無くなった時の事を考えると、堪らなく不安になるのである。そんなことも忘れて煙草をまさぐる自分が、ますます恐ろしく思えてきた矢先、自分の手は両方ともズボンのポケットに納まっていたことに彼は気付いた。
手は老人のものだった。何かを探しているようだった。蛞蝓のような無器用さが哀れだった。枯れた指がシャツの釦にかかったところで、彼は耳元に響く老人の、喘息性の息遣いを感じた。爪を立ててシャツを掻きむしる老人は、健康な肺を求めていたのだ。だが、その指は、命と引き換えるにしてはあまりにも無力だった。彼は改めて憐憫を感じた。
「じいさん」
と彼は声をかけた。乾いた風がそれに応える。
「じいさんは、なぜ生きたいんだ」
再び、乾いた風がそれに応えた。
回答が欲しい訳ではなかった。実際、この行列に紛れ込んで、腎臓やら肝臓やら眼球やらを抜き取る犯罪が頻発していた。背後の老人がそんな悪人でない、いや体力的な問題で、そんな犯罪の遂行が不可能だと分かっただけで、充分だった。老人の焼けるような息遣いが、彼の耳へ送り込まれていた。老人の八十年程の人生の全てをかけて、何かを伝えようとしているのだろう。だが彼にとってそれは仁丹臭いだけだった。
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