第4話 診断
長い時間が過ぎた。
件の老人は力尽き、踏み固められた。だが振り返る暇は無かった。突如として、行列の進行が早くなったからである。自由意志という言葉が彼の脳裏を掠めた。目の端に噴水のほとばしりが映った。一面を覆う霧が、上空の一点に微少な渦を作り、先ほど見た染みのようになった、と思ったのも束の間、彼は薄暗い受付口へと吸い込まれていった。
噂では、「予防医学」などという夢のような技術を研究する機関まで備えているという巨大戦艦のような院内は、耳が痛くなる程静かで、目の当りにしている群集が幻灯と見える程、不均衡だった。受付で六つ折りの地図と、自分の名前の入ったカルテを受け取り、彼は順路に従って様々な計測機器を通過した。
「つまり、痛みなどの主観的な感覚は、言語による意志伝達の不可能性を露見させます。刺すような痛み? どんな物でどんな角度で、どんな速さで、どんな力で、どのくらいの深さで、などなど。まあ、苦労して聞き出しても結局は比喩でしかないわけですね。部位の特定は愚か、実際には痛いのか、痛くないのかすら曖昧です。だから、この病院では患者の主観を一切排して、科学的根拠のみを材料として症状を特定し、膨大な統計調査資料などを援用しつつ診察を行なう訳です。それにしても、そんな質問をなさる貴方はよほど疑り深いお人ですね。疑念は無知の仮装だといいますよ。貴方の事は、貴方よりもよく知っておりますから」
銀の皿を額に翳した医師達とそんな会話をしながら、彼はさながら一個の発掘土器のような扱いを受け、カルテには呪術めいた記号とスタンプが増えていった。
「次は六階の二百三十五番へ行きなさい。ああ、その前にこのカップへ小水を入れるのを忘れないように」
白磁のカップに複雑な思いで尿を溜めながら、彼は自分の中の不安が減じていくかのような錯覚を覚えていた。おそらく、階段をぐるぐると回っていく螺旋の行列者全員が、同じような安堵を感じている事だろう。一体何処が悪くて病院に来ているのかと近くの男を見ると、一人は左手の中指が無い。もう一人は目脂で片目が塞がっている。風体は労働者であった。彼らは身体の欠損など日常茶飯時だが、手当が出るので医者に来るのだ。元気なのは当たり前だった。深刻な患者はこの列にはいない。となると、自分も大して悪くは無いのだろうと、彼は嘆息した。
しかし、もともと固太りの女主人がでっち上げた病気のせいで、彼はここにいるのだった。そもそも病気では無いのだ。だが、これだけ検査すれば、なにか未知の病魔が見つからないとも限らない。実はそちらの方に、彼は望みをかけていたのである。 カルテの欄が全て埋まり、彼はついに最後の部屋を指示された。そこは高層楼の最上階にある応接室のような部屋で、医師と数人の看護士、それに事務員が執務しているのだという。
部屋へ通じる昇降機を独占して上昇する時、その不規則な律動に鼓舞されるように、彼は眼下に小さく蠢く大衆の愚かさを嘲笑った。彼らは奈落へ向かう昇降機の前に行列していたのだ。昇降機からの展望は、艶消しの金色に焼かれる街のパノラマだ。遙かな地上は軒並み石化し、熱の放射に揺らいでいた。
扉が開く寸前、彼はあの塔を垣間見た。夕日を浴びていても、槍は白光を纏い、屋根は烏のように黒く沈んでいた。
昇降機を下り、医師の前に進み出ようとすると、事務員二人が彼を制止した。両脇から抱えられるように引っ張られたため、シャツの釦が千切れ、床を転がっていった。
尤も年嵩に見える医師は、豪奢な木製の壇上へ厳粛に鎮座している。二段目の両側には若い男が二人、向き合って羽根ペンを走らせている。そして最下段には五人の青い制服に身を包んだ屈強な男達が、彼に鋭い視線を浴びせている。この一番下の段でも、彼の目の高さである。
事務員は私を奇妙な診察椅子に座らせて、背後に引き下がった。周囲は全てガラス張りだった。天井からの明かりは無く、ひな壇から照射されるランプの尽くが彼の方を向いていた。街の明かりを足下に見ながら、彼は這いつくばらされているかのように惨めであった。
「君はいつこの街に来たのか」
誰が言ったのか分からない質問に彼は戸惑った。背後から、「答えろ」という罵声が飛ぶ。
「三年前です」
「職業は」
「いえ、何もしていません。あのこれは一体何の診断なのでしょうか」
「聞かれた事にだけ答えれば良いのだ」 と再び背後から声が飛ぶ。
「君は職人の家で生まれた。何故、この街へやってきたのだ」
「理由なんてありませんでした。ただ、列車を降りただけです」
自分の過去を他人の口から聞かされるのが苦痛だという事を、彼は初めて知った。だが、抗議しても無駄なのだという事は、了解していた。
「『波頭の薔薇』は最上級品だ。君はその技術を継承していないのか」
「私には無理でしたから。家に居ても役に立たないので、私は船に乗りました」
「家で役に立たないと自覚した人間が、のこのことやってきやがって」
これは三段目の誰かが言ったらしかった。彼の胸に、この病院にまつわる不穏な噂が蘇って来た。
「私は、学士の資格を持っていますし、徴用されれば立派に勤めてみせます。ですが、今は職も無くて… 幸い、少しばかりの貯えが、これは奨学金ですが、あったので安い部屋を借りて、誰にも迷惑を掛けないように暮らしてきたつもりです」
「体力は問題ありませんし、病気もありません。ただ、思想的に少しばかり…」
先程とは違う三段目の男が、囁いた。
空が彩りを無くし、ただの薄闇となった。照らされた彼の視界に、霧が流れ始めた。この霧は、一種の疾患ではないだろうか。そして時折現われる染みは、視覚障害の一種に違いない。
「私は目に異状を感じます。その点を…」
「何の問題もありません。視力も色覚も正常です」
二段目の左側が、すかさず言った。彼は目眩を感じた。
「学校では、倫理社会学を修めているな。では正常な大人が何をなすべきかはもちろん、正常な社会秩序を保つ為に当局がなさねばならぬ事にも、十分な理解がある筈だ」
彼が倫理社会学を専攻した理由は、他に奨学金給付枠が無かった為だったが、そんな言い訳が状況を好転させるとは思えなかった。
「ここは病院だと聞いています。私の身体に異状が無いと診断なさるのなら、もう結構です。これから帰って、と言っても宿にはもう部屋は無いでしょうから、住み込みの活字拾いの職でも探す事にします」
「勤まる訳はありません。この男には気力が無い。ただ気力だけが無いという、極めて危険な状態なのです」
「活字拾いは、不穏結社の機関誌製作で富を得ているという報告もあります」
「職が無い、という意識は、この社会についての批判と取れます」
「冗談じゃない。私は何も悪い事はしていない。ただ、宿の女主人に…」
彼は思わず声を上げた。そして唐突に全てを理解した。ここが本当は何の健康を守っているのか、また何の予防をしているのか。
女主人は、幾つもの時計を振り回しながら、麻袋に金貨を貯めているのだ。だから、あんな郊外で宿屋を続けられるのだろう。
「診断の結果、君は入院が必要なようだ。直ちに療養所へ送るよう」
最上段の医師が重々しく宣言し、ランプが一斉に消えた。彼は暗闇に両脇を挟まれ、昇降機の方へ引き摺られていった。
「何処へ連れていく気だ。こんな事が許されるのか」
「ただ、降りるだけだ。そう喚くな」
冷徹な声がした。チンと言って扉が開き、彼は昇降室へと投げ込まれた。そこには何もなかった。階数表示も、釦も、明かりも、床さえも無かった。頭上で慌ただしい足音が聞こえたが、すぐに遠ざかってしまった。彼は意識を失った。
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