第14話 恋のCOSMOSー1

 その夜のことである。記憶の底で水車小屋の形をしたオルゴールが動きはじめ、トロイメライのメロディーが幼い日々の郷愁をかきたてた。電気に触れたように全身がしびれるのを感じて目覚めたが、金縛りにあったように体が動かない。

「負けてたまるか! 」歯を食いしばっている自分がいた。

 そのような状況のなか、ビルの屋上に大きな目が見えた。まわりにはおびただしい人の群。倒れて動けない彼には気にも留めないように笛の音に浮かれて歩いている。

「いったいどこへ行くのだ?」

 たずねると

「あっちだよ」と、みんなが行く方角を指した。その口調は虚ろで誰もが行くから行くといった風だった。

 それはあまりに大きな地球ぐるみの演劇だった。地球という回り舞台の事実を引きずって、暗い河の淵へと青ざめた人の群が落ちていく。その回りには銀蠅が、腐肉を求めるように飛び回っている。私には地上の各地で繰り広げられている光と闇との闘争のようすが手に取るように感じられた。飢え乾く人々、破壊されていく自然、失われていく人情、醜い戦争、忌むべき人災の数々・・。

「待て! 方向が違うのだ」と語ったのは、ベートーベンのデスマスクだった。

「あの一つ目を超えて進め! キリストの十字架は、闇の向こうにある光の世界を暗示しているではないか。素朴に愛することも信じることもできない闇の世界よ。パンドラの箱が開かれてしまっているのだ。だが、光が現れれば闇は消える。自然の摂理は、現代も古代と同じように働いているのだ。 われわれは、神の示された愛と永遠の世界を、この世の終わりが来ても信じつづけよう!」

 その声が途切れたとたん、迷いの雲が晴れたように澄んだ空をめぐる風の音が心にひびき、全身の金縛りがとけた。妖怪の目も群集も視界から消え、体が急に軽くなったような気がした。腹筋に力を入れないのにスッと体が起きた。

 豆電球が光る部屋はまるで絵に描いた写真のようだった。鴨居がいつもよりくすんで見える。不思議に思って振り向くと、コタツの横に自分がいた。

「もしかして、霊魂が肉体から分離しちゃっているのか?」

 人は死期が近づくと、このように自分の姿を見るという。しかし、特に恐怖するほどのことはなかった。重い荷物を捨てたように気持ちがとても楽だった。

 それよりも不思議だったのは、ベッドに寝ていた少女であった。その容貌には、たしかに見覚えがあった。前世の熱い思いが、かすかに、そしてたしかに蘇ってきた。


 熱い夏だった。軍靴の音、銃声、硝煙のかおり・・。だれもが目の色を変えて戦っていた。

 私は三十になる将校だった。軍人としての誇りを持ち、国のため、家族のため、命を惜しまず戦っていた。武功をあげ、勝利をおさめ、進撃は続いていた。

 ある日、敵の襲来が予想される街で、のんだくれのごろつきに絡まれている若い女を助けたことがあった。それがリマだった。そのときは戦いに全力を費やしていたので、道端に咲く美しい花を見たように思っただけだった。

 その地での戦いは勝敗の行方をうらなう重要な一戦だった。名誉ある死を覚悟し、戦場に立った。しかし、死んだのは私ではなく親友だった。その死を嘆く暇もない熾烈な戦いのなかで、負傷し野戦病院にかつぎ込まれた。右肩に深手を負い、高熱で意識不明の重体だった。そのとき献身的に看護してくれたのがリマだった。

 彼女は純真で天使のような女だった。私たちは宿命の糸に引かれたように恋に落ちたが、私は軍人で妻子がいた。戦場での恋はそれがいかに真剣でもかなわぬ恋だった。私は祖国や妻子を裏切れなかったし、彼女は傷付いた患者たちを裏切れなかった。しかし、それは人生でたった一度のほんとうの恋だった。

 国境を隔てた別れのとき、私は告げた。

「この世ではもう二度と会えないかもしれない。でも、そのときは来世で会おう」

 彼女は瞳をうるませて誓った。

「きっと。かならず」

 その後、私は彼女とは再会しえぬままに戦地にて生涯を閉じた。

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