第13話 デスマスクー3
・・意識を取り戻し始めたとき、Aはベッドに横たわっていた。そして、あまりの現実の無情さにふたたび気を失いかけた。そこは剥き出された原始と倒錯の荒野だった。薬の余韻とくすぐったいような感触と恐怖と女の匂いに彼女は地獄の香りを嗅いだ。
Sは体に群がる銀蝿だった。と同時に彼女を天に導く快い毒蛇の接吻だった。逃げ出したかった。しかし、それができなかった。Sの蛭のような舌が彼女の人生の欝血を吸っていたからである。
Aは青海原に投げ込まれて荒波に揉まれている自分を感じ、人魚のように海を泳いでいた。ときどき煙草の火を押し付けられたような痛みが体を突き抜ける。しかし、それを進んで求めはじめたとき世界は一気に逆転した。海に溺れたのはSの方だったのである。Aは自然な泳ぎの天才を発揮しはじめていた。Sはしまいには泣き出し、気絶してしまった。それをながめていた八つの目は、甘美なる恐怖に体の芯を震わせていた。誘拐犯人たちは、その被害者に見事に誘惑されたのである。Aは美の力によってまたたく間に盗賊たちの女王となった。
それからどれほどの月日が流れたのだろうか。犯罪は捜索願いが出されたまま一向に露見せず、Aはその一室を離れなかった。そしてSたちのサークルすべてを支配してしまった。彼女はここでも太陽だった。その周りを惑星のように男と女たちとが回っていた。彼女は純潔を無残に傷付けた加害者たちに生きる理想を与えてしまった。そして彼らを自由に操る生殺与奪の権威さえも獲得した。だが、彼女はその力を自分の快楽以外の事に使おうとはしなかった。
転落は加速された。AはSたちの精気を吸い尽くす専制君主の全貌を現わしはじめた。狂乱には最後の一押しが加えられた。
「あなたたちは、わたくしのために死んでくれるかしら?」
彼女は匕首を手に微笑した。すでに肉体を通して忘我の喜びを知りぬいていた彼らは、その発言にも動じなかった。
「もちろんよ」
「あんたのためなら、神様の首だって絞め殺してみせるぜ」
彼らは誰もが彼女のためならば命を惜しまぬ戦士だった。Aは性の快楽が崇高な精神愛にまで昇華されたのを見てやさしく微笑した。そして荒野の果てに訪れる死の喜びを一度に直感した。
「今夜はパーティーを開きましょう。クリュグとナポレオン。それから薬を用意してちょうだい。
しかし、あなたたちは(SとPとを指差して)呑んじゃいけない。わたくしを介抱しなければならないわ。そして深い眠りに落ちたとき、わたくしをこれで殺しなさい」
Sは匕首を手渡されてへなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「今夜はクリスマス・イヴよ。
清らかな聖者が生まれた日、わたくしは空へ帰るのだわ」
彼女は悲しかったのかもしれない。しかしその頬に涙はなかった。彼女はただ眠りたかったのだ。永遠の「無」の臥所で!・・狂乱の宴は、Sたちの汗と涙とをカクテルとして、その濃度を増していった。そして終わりの時が来た。Aはさながら眠り姫のようだった。それを起こす王子は、この世には一人もいそうにはなかった。
SはPに向かって言った。
「あんたが殺りなさい」
「できねえ、俺にはできねえ」
女は夫の頬をぶった。「命令だよ!」Pはピクリともしない。Sはいらいらと歩き回って壁に頭をぶつけはじめた。
「わたしにだって、できやしないんだよ」
しかしAの目覚めを思うと恐ろしくなった。彼女が目覚めればきっと何事もなかったようにここを立ち去るだろう。そしてこれまでの事情をそのままに家族や警察に語るかもしれない。今までの不行跡の天罰が一度に下される。彼らは最後には誘拐が露見して社会的制裁が下されるのを恐れて殺害を決意した。心臓を一突きする勇気のない彼らは、線路沿いの車道を走り、彼女をトンネル内の線路を枕に寝かした。そして何事もなかったようにその場から逃げ去ったのである。
*
煙草に火を点けた。煙が風のすがたを描くように空中にのぼっていく。
無意識に描いた背徳の素描が、心にひそむカオスを穿っているように思えた。(奇妙に美化された死への衝動。)
壁では、マリリン・モンローのポスターが色気のない顔で微笑んでいた。ベートーベンのデスマスクはどこか苦笑しているように感じられた。
私は、体を起こして頭を抱えた。
「違う。違うのだ!
自然のひびき・・それを何かが遮っている・・
俺がほしいのは、もっと素朴な自然だ。山であり、川であり、星であり、風であり、太陽なのだ。一輪の花であり、命の輝きであり、死を超えた永遠の愛なのだ。
そうなのだ。俺はほんとうに生きたいのだ!
背中に翼がはえた鳥のように! 」
そう叫びたい心を抑えると、私の脳裏には一枚の『壁』が浮かんだ。それは、悲しみの象徴のように青空に向かって立っていた。
そうだ。この壁なのである。われわれを守り、そして苦しめているのは!
私は人類発生以来の壁の進化を考え、最後にイメージしたのは牢獄だった。犯罪者を隔離するばかりではない。孤独を感ずる人間にとっては、部屋もまた牢獄ではないか? そもそも自我というものが己を縛る牢獄ではないか?
そのとき、ベッドの方から「わたしを忘れないで!」という声が聞こえたような気がした。
若い女は、布団にくるまりスヤスヤと寝息を立てていた。それがあまりに安らかな命のひびきを伝えていたので、私はホッとした。そして彼女が、牢獄の鉄格子から忍びこんできた風のように思えた。
「そうだよ。ぐっすり眠って、悲しみの花びらをすっかり散らしてしまうがいい」
そう呟いて、なぜかやさしい気持ちになった。そのとき暗闇から声が聞こえた。
「ごめんなさい・・ありがとう」
私はその安らかな声のひびきに深く心が動かされた。だから何も答えられなかった。そしてそのとき初めて彼女に艶めかしい女を感じた。だが、男の欲望が首をもたげた時はすでに遅し。今日はクリスマスなのだ。聖なる関係は壊せない。彼は、子どものようにそのままぐっすりと眠ってしまった。
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