第12話 デスマスクー2

 ベートーベンの魂は、死んでなお時代を越えて人々の心を揺さぶり続けている。しかし、私の悩みは、もしもこう言っていいならば、方法を超えていた。音楽でも癒しきれない時代の不安があり、個人の焦燥があった。はるかで身近な「死」への思い。・・肉体の最高の存在とは、ロミオとジュリエットの悲劇的な死であろう。しかし、俺はロミオではない。そしてジュリエットはいない。

 ベッドの上で寝ている少女を見た。

「もしも彼女が目覚めたとき、隣で俺が死んでいたらどうだろう」

 その様を想像して苦笑した。それから剃刀を手にし、自分の指を切ってみようと思った。意志力で自分を傷つけるのは難しかったが、四度目に親指の血管が切れて血が溢れ出た。激痛が走ったが、それで精神は狂喜したのである。

「これで、あいつにも引けはとらない」

 私は立ち上がり、デスマスクに手を掲げた。血は脈動とともに零れ落ち、石膏の額から目許へと小川のように流れて行った。その唇に血のルージュを塗ると、その頬には赤味が差してデスマスクはにこやかに微笑んだ。

 私は笑って、少女を見た。

「君も、こんな風に悩んでいたのか?」

 彼女に近づいた。そのとき、急に胸が苦しくなって、ゆっくりとコタツに身を横たえた。心は穏やかではなかった。そして悪魔の腕に抱かれたように恐ろしい幻影が襲った。


                *


 列車が急停車したときのことだ。私は将棋倒しのように崩れ掛かった。その衝撃で白いエロス像が鉄骨に当たって吹き飛んだように感じられた。それとともに私の心の中からもっとも醜悪な観念が鼠のように飛び出してあたりに散らばった。それは剥き出したうわばみの歯のような情念の結晶体だった。

 脳裡にはバラバラに分断された美女の死体が写った。血はペンキのように枕木にこびりつき、その首はなおも安らいでいるように美しい。それはもしかするとヨハナーンを殺したサロメの死の幻影だったのかもしれない。

 私は散らばった将棋の駒を並べ変えるように自分の連想のアリバイを創作した。それは、折れた歯を並べ変えるような不可解な夢の補足だった。


・題    『真冬の死』


・登場人物 

  主人公  A  某財閥の子女。絶世の美女。

  殺人者  S バーのマダム。同性愛の女。

P Sの夫。無職。前科者六犯。

  共犯者 E  バーの従業員。マダムの女。

他 バーの従業員。二名。


・プロット

 Aは、生まれながらにして幸福の烙印を押されていた。そのため、天が与えた恩寵に心から倦んでいた。周囲から注ぎ込まれる愛情は、フリーザーの電流となって彼女の心を氷点下に凍らせていた。それが他者を愛する必要性を失わせていたからである。彼女は孤独のなかで自分だけを熱烈に愛していた。そして天に恋する娼婦のようにいかなる人間にも訪れる死という不幸に熱い秋波を送っていた。

 殺人者は、Aとは対照的な中年の醜男と同性愛的傾向を持つその妻だった。

 醜男のPはありとあらゆる悲惨の権化だった。生まれた時に親に捨てられたPは、幼少年期を施設で過ごした。この世を僻みの目でしかながめられない彼は、中学卒業後就職した鉄工所もすぐに首になり、酒とギャンブルと女に溺れた。ついには麻薬に手を出して刑務所と娑婆とを往来し、まさに野垂れ死に寸前のところを現在の妻のSに救われたのだった。

 物好きな女のSは、それほど醜いわけでもないのに十八の年に大恋愛をしてあっさり男に振られてからというもの極度の男性不審に陥り、女同志の愛に性の捌け口を見出すようになった倒錯者だった。しかし、その分仕事には精を出したのでその方面では成功し、今ではバーを三店ほど経営する女主人となっていた。Pを助けたオールドミスのSは、SEXをしない事を条件にPを夫とした。SはPを全然愛してはいなかったが、彼の不幸の履歴を愛していた。自分より不幸な彼の過去が、彼女の存在をとても幸福なものに変えてくれたからである。

 Aを見初めたのはSだった。銀座の画廊で見たのだが、あまりの美しさに愕然とし買物の用を忘れて器用に彼女の後を付け、気付かれる事もなく彼女の家らしき邸宅に辿り着いた。

 SはPに命令して彼女の素姓を調べさせた。彼は怪しまれぬように職場の女を使って彼女を探らせた。PもAの容姿には少なからず眩惑され賤しい欲望を露にした。Sは、Pのような男さえも虜にするAへの愛情と嫉妬とが一つ欲望となって、いかなる犠牲を払ってもあの女を我が物にしてやろうという気持ちを確固たるものとした。

 Pの調べによると、T大学に通っているという彼女を通学路で拉致することとした。

 彼らの計画は細心かつ大胆なものだった。Aは、箱入り娘の証拠に運転手付きのポルシェで学校まで送迎されていた。Sたちは、彼女の車が大学の門に着いた直後に焦点をあてた。

 Sは従業員のうち、特に信頼できる三人を選んでこの計画に荷担させた。これが初めての事ではない。三人の中の二人までが、このような計画の標的にされ、身を持ち崩した者たちだった。Sには鋭い勘があり、その眼鏡に叶った者は、まるでそれが運命だったかのように彼女のペットになった。失恋者、家出娘、退屈女・・Sは彼女らを勾引したが、彼女たちはそれで救われたと感じたのである。Sは罪を犯しながらも、それを彼女たちへの深い愛情で補っていた。だが、この度だけは自信がなかった。Aは、Sが一目で惚込んでしまったほどの上玉だったからである。しかし、だからこそ情炎は油を注がれたように赤々と燃え上がった。

 彼らの誘拐の手口は簡単だった。しかし、そこに人知の盲点があったのである。SとPは、大学の門の近くでAの到着を待った。校内には、手下のEが学生を装って彼女を待っていた。

 時が来た。Aは車を降りて、ドライバーに手を振ると軽やかに歩き出した。Eは人を掻き分けて彼女に声を掛け、懇願して彼女を車に導いた。車の中ではSが、親愛の情を浮かべて待機していた。Aは、彼女たちの表情に無邪気な喜びを発見するばかりで隠された毒牙には想到しなかった。

 Sたちはマスコミ関係者を装っていた。彼女はT大のキャンパス生活についてインタビューをしたいというSの誘いに乗って後部座席に座った。それを見てEがパタンとドアを閉めた。車は発進した。Aが「あ!」と声を上げた時にはもう遅かった。それを事件だと感じた人は、一人もいなかった事だろう。

 恐怖が走った。声をあげた途端にSの手が鷹のように素早く彼女の口許を赤いタオルで覆った。足元にはクロロホルムの瓶が、車の振動にカタコトと揺れていた。

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