第10話 銀蠅ー4
列車を降りてサイコロを転がすように歩きはじめた。もとよりあてはない。曲がり角に来ると臭覚にたよる。安らぎの客席と不安の舞台とがある。彼女はパンの香ばしい匂いがしない方角へと歩いていった。
「わたしは、何も知らない。
ただ足音だけがすべてを知っている」
大通りのネオン街が過ぎて、街の灯は遠ざかって行った。少女は運命の糸に引かれるように柳の十字架へと進んできた。
風の通り道・・ズキンと背骨にひびくような苦痛がおそった。
大きな目が彼女の魂を見すえていた。目を閉じて道に歩み出て、足をもつれさせて路上に倒れた。全身の力が地下へとスーッと抜けていった。
そのとき遠くにゴソゴソと歩く靴音がした。立とうとはしなかった。それはしだいに近づいて立ち止まった。懐中電灯の光が少女を嘗めるように照らし出した。
「ヒェー!」という悲鳴が上がり、靴音は早馬のように遠ざかった。
苦々しく笑った。そしてだるそうに立ち上がった。彼女は何かを探すようにスーツケースのチャックを開けたり閉めたりした。でも、自分が何を探しているのかわからなかった。
電信柱は冷ややかに彼女と平行線を為して地上に突き刺さっていた。しばらくして坂の上に人影があらわれた。
あわてて家並の隙間へとまぎれこんだ。
男はゆるやかに歩いて柳の木にたどりついた。彼女はそのすがたを息を殺すように見つめていた。
彼にまとわりついた戦場の幻影を見た。心臓が運命のささやきのように高鳴った。
ふたりの間を裂くように軽トラックがガタゴトと通り過ぎた。火花が散るような戦場の光景は、車輪の回転音とともに消え去った。
そこに道化があらわれた。
「ほんとうだってば、ここにだれかが倒れていたのよ!」
「でも、だれもいないじゃないか。夢を見たんじゃないの」
「人騒がせだこと。まったくおまえは臆病なんだからな」
それらの声が遠のいたあとで、男は来た道をゆっくりと帰りはじめた。
少女は家と家との狭間で木の匂いに頬を擦り寄せてジッとしていた。足音が亡霊のように近づいてくる。
『この音が消えてしまったら、どうしよう!』
不安におびえた。
『気が狂ってもいいのよ!』
その一字一句が残酷な人生の判決だった。
『気・が・狂・っ・て・も・い・い・の・よ!』
その言葉は破滅したくないという健全な告白だった。
彼女は見ず知らずの足音に救いを求めた。相手が、ヤクザでも、警官でも、サラリーマンでも、学生でも、不良でも、おじいさんでも、ホモでも、殺人犯でも、誰でもいい。生まれて初めてまったく衝動的に身体は動いた。
「待って、わたしを連れてって!
お願い! わたしを連れてって!」
*
私はおおきく溜息をついた。彼女は天使か? 銀蝿か? その判断は困難だった。いずれにせよ、羽根が傷付いていることだけは確かだ。・・寝返りを打った少女の動きに合わせて自分の体勢を変え、そっと彼女のもとを離れた。
チンピラに殴られた傷がズキンと痛んだ。炬燵に入り、煙草に火をつけた。そしてせつないのは自分なのではないかと思った。
無茶苦茶だ! 俺がヤクザだったなら、好色だったなら、あるいは悪魔だったなら、いったいどうなるのか?
だが、それを咎める気にはならなかった。真冬の狂気は、現代人のだれもが持っている病気だ。彼女は行動した。安らぎの客席と不安な舞台とがある劇場で人生を意図的にドラマ化してしまったのだ。私はそう考えてその娘に愛しさを感じた。彼女が別れた恋人の化身のように思えたのである。
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