第9話 銀蠅ー3
A子はクリスマス・イヴの日に家を出た。都会をあてもなくうろつき、電車を乗り継いでは遣り場のない不安に神経をとがらせた。
真っ赤なトレーナーとジーンズ、黒いコートにスーツケース。若い容姿はそれらを一つに溶解させていた。彼女はそのままで絵になる俳優だった。十七には見えない。体が大きいわけではないし、顔が大人びているわけでもない。ただ絶望が彼女を大きくし、生来の白い素肌に美貌の陰影を与えていた。
通行人たちは、彼女の詩との釣り合いが取れずに次々とかたわらを通り過ぎて行った。だが、ある種の効果は、他人の目を通して跳ねかえってきた。男の目に光る欲望。女の目に光る嫉妬。子どもたちの興味。老人の好奇。百千の目。しかし、そこには運命のささやきはなかった。それは、彼女の前進とともにプツンと途切れてしまう絹糸のような関心だった。一陣の風をとどめる障害物はどこにも見つからなかった。
はるか遠くにある世界。運命のささやき。「どこかで誰かが私を呼んでいる」その予感が心のブレーキを壊していた。それは、何かにぶつかるまではその動きがやむことはない捨て身の行進だった。
寒くはない。空腹でもない。ただ煙草で喉がヒリヒリしていた。週刊誌にも飽きた。A子は独りである。何も思い出すまいと決めたのが、物思いのはじまりだった。
余計なことが雲のように浮かんでは消えてゆく。それらの思いは時限爆弾のように想像力の末端に火を点けて、爆発の時をしずかに待っているかのようだった。ゴトゴトと走る列車の振動は大地震の予兆だろうか?
A子はピアノの鍵盤のように窓辺をコンコンとたたきながら外の景色をながめていた。すると闇のなかにだれかの面影が浮かんで消えた。
「アイツか。好きだったような気もするなあ。でも、どうでもいい。べつに彼氏じゃないのだから」
ほんものの恋の相手を探していた。だから人生に失恋していた。探してもロミオは見つからなかったからである。
手元には冷めたハンバーガーがあった。家出をしてまで食事のことを考えるなんてバカげていると思ったのだ。
「スーツケースなんていらなかったなあ。ギターを持って来ればよかったなあ」
まだ夢を見ていた。A子はわけもなく泣きたくなった。
そのとき、となりの座席から幼稚園生くらいの男の子の話し声が聞こえてきた。
「ねえ、お父さん。あれ、お月さまだよ」
「どれどれ、ほんとだね」
「きれい!」
「きれいだねえ」
「どうしてお月さまはあそこにあるの?」
「夜空が暗くてさびしいから、神様がこしらえてくれたのかな?」
男の子は「ふーん」とうなずきながら、
「少し動いているみたいだね」とつぶやいた。
「引力があるからね」と父は答えた。
「インリョクってなあに?」
「物と物とが引きあう力さ。ボールを空に向かって投げてごらん。地面に落ちてくるだろう」
「それじゃ、ボールのようなお月さまはジメンにおちてくるの?」
「そんな事はないさ。地球と月とはぶつからないようにグルグル回っているのだもの」
子どもは納得しない。
「どうしてぶつからないの?」
「ふたつを離れないようにむすんでいるヒモのようなものがあるのだよ」
「そんなものは見えないよ」
「引力とは、目には見えないものなのだよ」
「目には見えないヒモなんだね」
男の子は一瞬わかったような顔をしたが、
「でも、お父さん! まちがって、そのヒモにあたまをぶつけたらどうしよう!」と声を高めた。
「ああ、おまえも子どもだね。大人になったらわかるよ」
会話はそこで途切れたが、A子は苛立って立ち上がった。
「大人になったら、わからなくなってしまうでしょう!」
親子は目を丸くして、たまげたように彼女を見た。横を向いて別の車両に移ったが、どうしてそんなことを叫んでしまったのか自分でもわからなかった。
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