第8話 銀蠅ー2
冷ややかな微笑がもどったときは、すでに日はかげり小雨模様となっていた。椅子を立てなおし、手にした本を銀蝿に向かって投げつけた。そして本を重ねなおしていると蝿はブンブンと唸ってカーベットの上を転げ回っていた。
偶然の事態にぎょっとしたが、そのとたん彼女の悲しみはぜんぶ銀蝿に吸いこまれてしまった。すばやく針をつかんだが、傷ついた虫を殺すのはためらわれた。
箒で塵取に蝿を取り、窓の外に捨てた。A子は安心して椅子にもたれたが、どこか割り切れないものが残った。
「いつも私は、こうしてよい子のふりをする。いつもそうよ」自分の人差し指に注射をするように針を刺した。血は生きている証拠のように赤い玉となってあふれ出た。唇でそっとその血を吸った。
悲しみに口づけを!
思い出は遠すぎて、
二度とわたしにはもどらない。
少女は初めてタバコを吸って咳こんだ。サングラスを掛けて鏡を見ると、そこには赤いトレーナーを着て唇にルージュを塗った見知らぬ女が立っていた。あわててサングラスを外して顔を赤らめる。安心と不安とが複雑にからみあい胸が高なる。
A子はのぞいてしまった。見知らぬ自分のありかを、いくつもの自分の素顔を。しかし、それは恐怖ではない。どこかに自分を遠隔操作している自分がいる。そのような陳腐な発想は彼女の気に入った。複数の自分のなかに醜いせむしの小人がいたとしても、まだしもそこには救いがある。そいつを乗り越えようとして生きることができるから。その先にある虚無の胃袋だけが恐ろしい。何も、何もないということが・・。
彼女は想像力の欠けた日常生活に悲しみというペンキを塗った。だからその天地は、自分の舞台となった。その点彼女は生きずらさの美学を演じており、若さと空しさとの癒し難い矛盾を代表していた。
A子は天賦の才能からこの世のカラクリに気づいていた。人間の歴史とは何のことはない。のっぺらぼうが自分の顔を欲しがって闘争し、顔ある者が自分の顔を磨りつぶしてのっぺらぼうになる。その複雑な繰り返しである。ある者には目がない。鼻がない。ある者には口がない。足がない。これは冗談ではない。目があって目が見えず、足があって足が動かない人間が、この世にどれほどいることか。
悲しみの表情ですら、のっぺらぼうには勝る。それは顔があることの喜びですらあるのだ。そこを理解しなければ、この世の悲しみの多くはくだらない愚かさの証拠にしかならないだろう。
A子は鏡のなかの自分に問うた。
「わたしは美しい? わたしは美しいかしら?」
鏡は答える。
「美しいわ。美しいわ」
魔物に脳を踏まれたように涙があふれる。
「愛しているの。愛しているのよ」
鏡は繰りかえす。
「愛しているわ。愛しているわ」
夕陽は黄金の矢を心臓に向かって放つ。A子はふらふらと窓ぎわに寄って鍵をあけた。雨あがりの陽射しとともにサーッと風が流れこむ。その快さ!
もしも風に色があるとしたら、それはどんな色だろう。もしその色がわかったら、水のなかの魚の気持ちも少しは理解できるかもしれない。
人間は科学の時代においても、中世の感性を根強く残している。生きていることの不思議さ。それは、過去においても、未来においても、決して変わることのない生命の神秘なのだろう。
地球が四六時中回っている事実さえ、誰が知っているというのだろう。それをほんとうに知ったなら、太陽風の轟音がうるさくて気が狂ってしまうのではないか? 宇宙の大きさを全身に感じてしまったならば、どうして肉体がその重圧に耐えられよう。 だから、いない。一人もいない。知った者はすべて死んでいく。
A子はつぶやいた。
「わたしは知っている・・ぜんぶ、ぜんぶ知っている」
鏡のなかには自分がいた。
「カラクリを忘れよう。残らず忘れてしまわなければ・・」
鏡に唇を押しあてた。とたんに鋭い叫びが走った。
「冷たい!」
手から鏡が滑りおち、床にくだけて散らばった。その破壊音は傷ついた小鳥のように宙をかけ巡った。
「冷たい、冷たい、冷たい、冷たい・・・」
床に散らばった鋭い切り口の破片には、彼女のすがたが幾重にも写しだされた。
・・・
ゴミを掃きとり、ガラスの破片を庭に投げ捨てた。ガラスは残り陽にかがやいて、流星のようにキラキラと地上へ落ちていった。
見られたくない日記を燃やした。振り向いてはならない。置き手紙も書かない。捨てられた学生服が、何かを物語ってくれるはずだった。
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