第7話 銀蠅ー1

 遠い昔の夏の日だった。どしゃぶりの雨のなか、小学一年生のA子は父の背中を見送っていた。傘から雨が糸を引き、足元がわずかに濡れていた。どこか疲れたような背広姿が、父を見た最後の記憶だった。

 その日父は交通事故で死亡し、その後母が懸命に働いて彼女を育てた。

 それから六年後、新しい父との共同生活がはじまった。実父は教師だったが、継父は実業家だった。年が十二も離れた腹違いの弟が誕生し、A子は姉となった。

 彼女はいつも優等生だった。性格は明るく、学業は優秀で、スポーツもできた。大好きな父親が死んだ時も、母を悲しませてはいけないと思い、悲しみを引きずっている素振りは見せなかった。中学に入り、母が再婚する時も、それで母が幸せになるならと祝福した。テニス部に所属し、キャプテンも務めた。弟の面倒もよく見た。友だちの間でも、強くて優しい女だと思われていた。音楽や絵も好きだった。将来の夢を聴かれたら医者になりたいと答えていた。「良い子」のイメージはA子が生まれながらに背負っていた十字架だった。それを演じているストレスが、彼女を苦しめていることには誰も気づかなかった。いつの頃からだろうか。愛の渇きを意識しはじめたのは・・。


 ある日のこと、鏡を見ると、そこにはのっぺらぼうがいた。それを見たA子は、あわててそこに人間の顔を彫った。

 その日、高校の教師や友人や隣人が顔がないのっぺらぼうに見えた。『私も同じのっぺらぼうなのかしら』数学の授業のとき、それを考えて発熱した。となりに座っていたのっぺらぼうが、彼女の苦しみを察して突如として友達に変わった。

 保健室で検温をしたら三十八度を超えていた。A子は顔をほてらせながら、自分の演技の完璧さに苦笑した。

 A子は学校を早退し、独り部屋にいた。夏の終わりを告げる陽射しのなか、時計の音を聞きながらしゃがみ込んでいた。レースのカーテンがゆれ、風が髪をとかしていく。

 東京の郊外。庭の向こうには住宅街が国道までずっとつづいている。どんよりとした空。区切られた自然。煤煙が空を占領して灰色の雨を降らせそうだった。

 考え始めたきっかけは失恋だったかもしれない。勇気をもって告白したのにあっさりと断られた。心が悲鳴をあげた。しかし、良い子のA子は、その傷をも孤独の底へと封じ込めてしまった。


 窓をあけて空をながめていた時、まるまるとした銀蝿が頬にとまった。遮二無二のけぞって、部屋の片隅に身をよせた。銀蝿は光にかがやいてブーンブーンと輪を描く。少女はふるえるような嫌悪にかられて手もとの学生服を投げつけた。かすりもしない。蛍光灯が音を立てておおきくゆらいだ。

 ゆらゆらと揺れる蛍光灯の不安。ほこりが粉雪のように降り落ちるなか、蛍光灯は動いていないと錯覚した。絶対不動の蛍光灯を中心として、八畳の部屋全体がゆらいでいるのである。銀蝿の羽音が何かを狂わせている。それとも、ある種の正常を垣間見せているのだろうか。

「窓がおおきな口をあけてあの虫を呑みこんだのだわ。

 はやく閉じてしまわなければ」

 窓は鎖された。あわただしく鍵までが掛けられた。椅子にもたれると銀蝿は窓ガラスをコンコンとノックしていた。

 A子は引出しを開けて何かを探していた。釘はない。針もない。ナイフも、彫刻刀もない。溜息をついて机を見ると、ペン皿に銀色の光沢があった。コンパスである。少女は微笑し、その針を外して立ちあがった。

 まるまるとした銀蝿が目の前で曲線を描いている。彼女はふるえる手でその虫を追いはじめた。蝿は差しこむ光を港としてたくみに空中を泳ぎまわる。追うごとに八畳の部屋は少しずつその姿を変えていった。カーペットがずれ、椅子がたおれ、本がくずれ、かくれていたほこりが日光に反射して無数のプランクトンのように空中に浮遊した。

 蝿は捕まらない。時だけが悲しみの線を描いて流れていく・・少女はやがて、行為の無意味さに疲れて押入の前にうずくまった。銀蝿は快さそうに飛びまわっている。彼女はもはやその虫を見てはいなかった。

「汚い蝿の微菌でこの部屋も汚れてしまったわ。たった一つのきれいなこの部屋さえも・・・」頬を切るように涙がこぼれおちた。多くのことが思い出されて。

 時の流れのなかで幼年を反芻し、その記憶のなかでわれを忘れた。

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