第6話 運命の出会いー6

 1分も経っただろうか。少女に目をやると乱れた服装で倒れていた。

 ナイフを捨て、目の前の女の処分に困った。痴漢あつかいをされてまで助ける筋合いはないが、このまま行けば凍死だろう。

 近づいてみると、その体は熱かった。病院か? それとも警察か? でも、この状況をなんと説明するのだ? やむなく女を背負いスーツケースを持って歩きはじめた。

「silnt night

     holy night・・・」

 十字架を背負った聖者の心境で女の重力に耐えていた。

「今夜はイエス様のお祝いの日だ。神様が俺の嘆きに手ごろな罰を加えたのだろう。

 それにしても、おかしな夜だ。心にあるはずの理性のネジが外れている」

 私はこの世の不条理の靴をはいて歩いていた。その労働の意味は、私自身にも分からないシシュフォスの神話だったのである。


              *


「あちィー」

 鏡に向かい治療をしながら顔をしかめた。オキシドールが傷口にしみ白い泡がたつ。からだの節々が痛む。それがなければ、きっと夢を見ているとしか思わなかっただろう。

 唇が切れ、前歯が一本ぐらついている。からだのあちこちには傷と痣。脱脂綿で血を拭いてゴミ箱に捨てる。しかし、絆創膏も包帯もない。消毒をし軟膏を塗るだけの治療だった。どこかにカットバンがあったはずだと思い、あちこちを探す。

 板の間には血で汚れ破れた服が脱ぎ捨ててあった。若い女はベッドの上にいた。苦痛を忍んで自分のアパートまで運んできたのだが、私にはまだ充分な状況把握はなかった。

 ようやくカットバンを見つけ治療が完了してから、煙草を一服。それから彼女の顔を遠めにながめた。眉のあたりに陰りが感じられるが、鼻筋の通った輪郭に赤い唇がつぼみのようにふくらんでいる。若く艶のある肌、長く肩をおおっている黒髪、ひそやかな息づかい・・。その娘は美しかった。あばら屋に名馬が舞込んだような塩梅だったが、そのような美醜は問題ではない。彼女が何物か? それが問題のすべてだった。


 彼女は悪夢にうなされるように、

「いや、やめて!」と呻いた。

 うつろな目があたりを見回している。

「気がついたのかい?」

 その声に彼女は「あっ!」と叫んだ。私は顔を赤らめた。

「君は熱があって、服はぐしょぐしょだったんだ。だから、コタツで乾かしているところだよ」

 少女はあの時の記憶を取りもどしたらしい。だが、意識は夢遊病者のようにゆらゆらと夢と現実との間をさまよっていた。身をよじり、布団を抱き、髪を乱して女の素顔をあらわした。身体のなかでのたうちまわる蛇に翻弄されているような苦悶の姿・・水枕がピチャピチャと音を立て、果実のような乳房が小刻みにふるえている。

 私はめまいを感じて立ちあがった。すると彼女はおびえたように体を硬くした。押入を開け、下着とセーターを取ると彼女の前に放り投げた。そして、すとんとしゃがみ込んだ。

「着なよ」

 その声に女はしくしくと泣きだした。それが何の涙であるのか、私には理解できなかった。生唾を呑んでおおきな溜息をついた。少女は服を着はじめた。それはだぶだぶで不釣合いだった。

 彼女の反応に胸をなでおろし、近づいて母親のように額に手を当てた。

「まだ熱いね」

 寝かせて布団を掛けなおす。女の頬にはポロポロと流れる小川・・。私はそれを指でぬぐった。それをうるんだ瞳がジッと見つめている。視線を逸らすように気楽に振る舞った。

「あったかいミルクでも飲むかい?」

 首が横に振られた。

「頭は痛くない?」

 小さくうなずいた。二人は徐々に異常な状態に慣れて、それぞれのポジションを自覚しはじめていた。だが、普通の会話をはじめるには時間が必要だった。

 私はコタツに座って話した。

「ここは僕の部屋だよ。むさくるしいとこさ」

 その部屋にある主な物は本だった。ベートーベンのデスマスクとマリリン・モンローのポスター。数十枚のレコードとプレイヤー。木刀。あとは机とコタツと衣裳ケース・・。

「何があったかはきかないよ。

 嫌なことは忘れて、ゆっくり休むといいよ」

 彼女は安心したようで、自分の欲求を口にした。

「寒い、寒いの」

「医者を呼んでくるよ」と玄関へ向かったが、

「やめて!」の声。

「・・・」

「お願い。そばにいて」

 近寄ると彼女は顔をふせてしがみついてきた。それは悪夢におびえる子どものように私を押し退けているようにも引き寄せているようにも思えた。私は反発と憐憫とを同時に感じて適切な対応を失ってしまった。

 川に浮かぶ丸太のように時に身をまかせてじっとしていた。傷の痛みだけが現状の危機を知らせる赤信号だった。

 少女は私にすがりついて現実の川をただよっていた。そして自分がたしかに浮いている事がわかると女の羞恥を取りもどしたのであろう。力をぬいてあたたかなセーターのように私にもたれていた。

 二人は、おたがいのぬくもりに緊張していた。しかし、しばらくするとそこに不思議な安らぎが生まれた。そして無言のままに長い時が流れた。

 私は眠れなかった。言葉のかわりに彼女の長い髪を父親のようにやさしく撫でていた。彼女は胸が潰れるほどにみじめだったのかもしれない。あるいは、寄りそう相手がいたというだけで幸福だったのかもしれない。私は魂のせつなさの感染を受けて、彼女の事を考えずにはいられなかった。

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