BAR GIMLET

田山

第1話




「…終わりにしないか」


一年に一度、私が主役になれる日、その日の朝にまさか言われるとは微塵も思っていなかった言葉が私を貫いた。

彼とは付き合って5年、同棲中だ。てっきり結婚するものだと思っていたのに…

そして私は、30の夕闇へと歩を進めることになった。


18:30、今日は私の曇った気持ちに反し、とても早く仕事を終わらせることができた。

「ふふ...今日に限って早く帰れるなんてね...何の皮肉よ...」

私の会社は所謂ブラック企業というものらしく、彼と付き合っていた頃は陽が出ているうちに帰宅など数えるほどであった。

今日ほど家に、彼がいる家に帰りたくないと思う日が来るとは、昨日まで露ほども考えはしなかっただろう。

生温い夏の夕暮れの風が吹く中、心には寒風が吹き遊んでいた。


「生お代わりお願いします。」

家に帰りたくない一心で私は人生で初めて、1人で焼き鳥屋の暖簾をくぐり、カウンターで傷心を労わるべく生ビールを流し込み、焼き鳥を啄ばんだ。

お酒は昔から人より先に潰れることはなかった。私の自慢の1つだ。

そこそこに空腹を満たし、心地よい酔いに浸っていたかったが、ふと我に帰り自分の行動を整理すると、途端に顔が赤くなり即刻お勘定を済まし店を出た。

大通りに面したその焼き鳥屋を出ると、すっかり陽は落ち、ネオンが激しく主張する夜の街へと様変わりしていた。

一瞬このまま帰ろうかと思ったが、よくよく考えると家には忌々しいあいつが待っているのである。

到底帰る気にはなれず、しかし馴染みの店もないのでどこか気を紛らわすことのできる場所はないかと店を探す決心をした。

生まれてこのかた30年、1人で飲み歩くなど到底考えもしなかった女が、この夜だけは違った、現実味のない別れが、彼女をそうさせたのだろう。


だが、1人で飲み歩くことのなかった女がそうそう簡単に思いつく店など居酒屋以外にあるはずもなかった。

「はあ...疲れた...なんで私がこんな目に...」

ただ店を探すはずが、探しているうちに今日を振り返っていたのだろう、半ばヤケになっていたところ、一つの路地が目に入った。

普段ならば決して通ろうとも思わない路地だ、薄暗く、不気味である。

だがその日は自棄になっていたこともあり、ずんずんその道を進んだ。

程なくして、街のネオンが届かなくなった場所に異様な雰囲気を醸し出すBARがあった。

焦げ茶色の扉には表札が掛けてあり、その表札を優しく、そして妖しく照らすビームランプが灯っていた。



表札には

「BAR GIMLET」

と書かれていた。

恐らくふつうの人間ならそんな異様な雰囲気は感じないであろうが、いかんせん彼女は焼き鳥屋も1人で入ったことのないようなウブである。

外見の怪しげな雰囲気に少しばかりの恐怖を感じ、しかしその妖しげな雰囲気に唆られ入ろうか入るまいかと立ち往生していたところ

「すみません、入ってもよろしいですか?」

と後ろから爽やかな声が聞こえた。

はっとなり振り向くと、スーツ姿の眼鏡を掛けた一見地味な、しかし顔立ちは端正な男がいた。

私は瞬時に退き、どうぞ、と促した。

そして、この人に便乗しようと決意した。


カランコロン...

重く厚そうな扉を開けたスーツ男の後ろを怯えるようについていったが、「いらっしゃいませ」という声と共に目に入ったのはこれでもかというほどの、恐らく酒であろう瓶がびっしりと棚に並べられていたのである。これは”バックバー"と言うらしい。

そして茶色を基調とした薄暗い店内には10席ほどのカウンターのみで、蝶ネクタイをつけたバーテンダーが1人と、おそらくキャバ嬢と見える若い女性と談笑している中年の男性客の2人のみだった。

よければ隣どうぞ、スーツ男はそういってスマートに隣の椅子を引いた。

「お久しぶりです、山本様。」

バーテンダーがスーツ男におしぼりを渡しながら言った。

そして、私にもおしぼりを差し出し、「お客様、ご来店は初めてでしょうか?」と言った。

まだ、この雰囲気にも慣れていない私は戸惑いながら「は、はい...」と尻すぼみに返事をした。

「ラフロイグを、オンザロックで」

山本と呼ばれていたスーツ男がバーテンダーに告げる。

いかにも常連らしい。

一方私は、BARで何を頼めばいいかもわからず、カクテルの知識も居酒屋メニューでしか知らないため何を頼むか悩んでいると、それに気づいたのだろうバーテンダーが

「甘いもの、さっぱりしたもの、フルーツはどう言ったものが好きか、アルコールは強めがいいか弱めがいいか、それだけ教えてもらえればこちらでお客様に合ったものをお作りします」

と、優しい落ち着くような笑みで言った。

私は内心、それだけの情報で私の欲しているものがわかるの!?と驚いた。それを見透かしたのだろう、山本が

「安心していいですよ、ここのマスターのカクテルは絶品ですから」

と、微笑み掛けた。

「じゃあ...さっぱりしたもので、アルコールは弱め、あ、あとマスカットが好きです」

まるで幼児を見つめるかのような優しい目線を横から受けているのを感じ、そう伝えると一呼吸置いて

「はい、かしこまりました。」

とマスターが頷いた。

私は、マスターの作る様子をぼんやり眺めながら今までのことを思い返していた。

彼と出会ったのは6年ほど前、私が就職し2年目を迎えた年の梅雨、OB訪問で母校の大学で講演会、所謂OBから学生に向けての企業説明会のようなものをしている時だった。

やけに食い入るようなキラキラした目で真剣に聞いてくれる子がいるなと思っていた。

そしてOB訪問が終わり、帰る準備をしているとその学生が駆け寄ってきた。

「先輩の話、もっと聞きたいです」

まさに犬のように尻尾を振っているような雰囲気に思わず吹き出した。

背は170後半だろう、少し見上げるほどで顔立ちは端正、いかにも今風という印象だった。

その学生は当時21歳だった。それから何度か食事をするうちに仲が深まり、一年後に交際となった。

心の底から幸せを感じていた、もっとも異性との交際が初めてではなかった。だが、全てが初の体験のように胸が高鳴り、夢中にさせてくれた。

もちろん、喧嘩もあったし別れの危機もしばしばあったが、それでも一方的に別れを告げられたのは初めてのことだった。


「どうぞ、お待たせしました。」

その声とともに我に帰り、顔を上げると頬を涙が伝っているのを感じた。

マスターや山本は驚いていたが、私が驚いたのはそこではなかった。

目の前に置かれた細長いフルートグラスにかき氷のように真っ白なフローズン、底には鮮やかな青、まるで快晴の日の澄んだ海と白い雲のようなカクテルが涙のせいかキラキラと光っており、まるで宝石のように輝いていた。

私が傷心だというのを察したのか、山本が静かに自分のグラスを私のグラスに合わせた。

チン...と澄んだ音が鳴る。

少女がおもちゃの宝石を目を輝かせながら眺めるように、私はグラスを持ち上げ口に近づけた。

そこには私の要望通り、爽やかなマスカットの香りが鼻腔をくすぐり、一口飲むとたちまち清涼感が喉を駆け抜けるとともにマスカットの心地いい甘みが余韻となって残った。

フローズンのシャリシャリとした感触も楽しく、夏のビーチを連想させた。

「ふふ...傷心にビーチかぁ...」

まさに私の求めていたものだった。いや、私自身気付かない、私の心の奥底で望んでいたものがこれだったのかもしれない。

大袈裟だが、彼女は本気でそう思っていた。

すると山本が

「僕でよければ、話を聞きますよ。ここであったのも何かの縁ですしね」

と、微笑んだ。

私は自分でも驚くほど、全てを山本に話していた。山本は優しくうなづきながら、決して聞き流すこともなかった。

気付くとまた、大粒の涙を流し、そして時折山本のユニークな話に笑いあった。

マスターは、ただ優しく寄り添うように私達を見ていた。


ふと時計を見ると、なんと0時を回っていた。

あぁ...誕生日も終わったな...

と、ふと考えていると

「...マスター、チェックで」

山本が帰るようだ。

私は少し名残惜しくなっていると、それに気づいたのか山本がプッと吹き出した。

「次、行きますか?」

私は恥ずかしさのあまり赤面したが、小さく頷いた。

「「ごちそうさまでした。」」

そう告げると席を立ち、少しはにかんで


「こうなったら、とことん付き合ってもらいますからね」


「ええ」





山本が微笑む

店の扉は入る時の重厚さを消し去り、背中を押してくれるようだった。


そして、30の夜明けへと、歩き出した。


カランコロン

「またのご来店をお待ちしております。」

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BAR GIMLET 田山 @Akitayamagata

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