人形の娘

真夜中 緒

人形の娘

 私は母の背中を見て育った。

 母の視線はいつでも私以外の何かの上に焦点を結び、私の方に顔を向けることさえほとんどなかった。そもそも同じ部屋の内にいることが稀なことであったように思う。

 私は母の背中越しに、母が他の誰かにかける言葉を聴き、母の横顔を盗み見るように眺めた。そうしている私は、少し夢見心地でさえあった。

 私が幼い頃、邸に住んでいるのは母と私の母娘だけではなかった。邸の主は祖父で、私達母娘の暮らす東の対の他に、伯母が暮らしている西の対があり、そこには私の父の同母兄が通っていた。

 つまり母と伯母の姉妹は揃って兄弟の皇子を通わせていたのだ。私はそういう濃い身内に囲まれて育ちながら、一人でいることが多かった。

 もしも私に姉妹か兄弟がいたなら、そうでなければせめて従兄弟がいれば、状況はずいぶん違っていたのだろうと思う。

 祖父と伯母は優しかったけれど、日常的に接触しているわけではなかった。母がそうであるように、二人もまた忙しかった。母ほどではないにしても。

 もちろん乳母はいたけれど、私の乳母は物事のけじめをつける人だったので、母代わりというほどの関係ではなかった。そして乳母の子は物心つくより前に亡くなっていたので、私には乳母子も存在しなかった。

 寂しいかと問われても、当時の私にはその気持ち自体がわからなかっただろうと思う。「寂しい」と答えられるのは「寂しくない」を知っている者だけだ。

 母が私の目を見て話したのは、父ではなくこれからは伯父が母に通うのだと話した時と、私に伯父の息子の一人が通って来ることになったと告げた時だけだった。


 伯父が母に通うようになって、いくつかの変化があった。

 まず、当たり前だけれど父の顔を見ることがなくなった。もっとも父と言っても、母に通ってきてはいても私にかまってくれるわけでもなかったので、衝撃は大きくなかった。むしろ伯母が邸を出ていったことの方が、よほど大きな出来事であったように思う。

 伯父が元々通っていた伯母は、母の元に伯父が通うにあたって、伯父の臣下に下賜された。中臣某とかいうその臣下の正室として、本邸に迎えられる事になったのだ。伯母は邸にあった外国の人形を、新しい住まいへ持っていってしまった。

 私は、その人形が好きだった。なんだか母に似ているように思ったからだ。

 整った顔立ちは凛として、視線は真っ直ぐに前を見据えている。艶やかな衣を着、銀の簪を髪に飾った人形は、ずっと眺めていても飽きなかった。ずっと眺めていると母の事を見つめているときのような、仄かな夢見心地を味わえるような気がしていた。

 それからしばらくして、祖父が死んだ。

 その少しまえから身体を悪くしていた祖父にとって、伯父が通う相手を伯母から母に取り替えた事は、衝撃的だったのだと思う。日に日に弱っての枯れ落ちるような死に様だった。

 邸が母のものになったところで、母が邸にいる時間が増えるということはなかった。そもそも伯母が出ていく前の数年間、母はみやこにいなかった。半島への出陣に伴っての御門の長い行幸に従っていたからだ。戦に破れ、御門も崩御されて、戻って来たはずの京はすぐに近江に移されることになった。

 遷都みやこうつりの折にはさすがに私も母に同行した。皇族、公卿から庶人まであげての行列はどこまでも続き、行列の中に物売りの現れるような騒ぎだった。

 新しい京は大きな淡海のそばにあった。

 

 あの淡海のそばで私は私は多くを得て、それからその内のいくつかを失った。

 背の君が通うようになって、私は自分が美しいのだということを知った。背の君はその美しさを手放しで喜び褒めちぎってくれた。背の君の訪れを受けて、私は吾子を授かった。

 淡海のそばでの暮らしは、今思えば美しい夢のようだ。そこで背の君は即位して、私は立后した。

 もしかしたら本当に、淡海の見せた夢だったのかもしれない。あっという間に背の君は倒れ、即位はなかった事になった。

 吾子は夢の残り香だ。

 吾子だけが今も私のそばで、同じように笑っている。

 

 私の事をほとんど見ない母は、吾子の事を見つめている。

 即位を否定されてはいても父は天皇すめらぎ、母は皇后おおきさき

 両祖父も、曽祖父母も天皇。

 本来ならおおきみではなく、皇子みこと呼ばれてしかるべき御子。

 母は吾子が王と呼ばれるのは不当だという。背の君を倒して即位した父に、皇子の称号をねだれという。

 なぜ、そんな必要があるだろう。

 背の君は儚くなった。私の父である今上に攻められて。そして廃される事なく、即位そのものを否定された。

 その背の君の子である吾子を御門が皇子と認めるはずがない。そんなことをねだれば、吾子の立場が危うくなるだけだと、私にもわかる。

 案の定、御門は私に新しい婿を迎える事を仄めかされるようになった。

 私はそのお話を受けようと思う。

 だって、私は吾子に生きて欲しい。

 生きて、幸せになって欲しいのだ。

 私も今では「寂しい」がわかる。それは背の君と吾子が私に「寂しくない」を教えてくれたから。

 いつでもほんのりと温かいあの気持ちが「幸せ」ならば、私は吾子に幸せになって欲しい。

 だから私は皇后でなくてかまわない。

 でも。

 母はそれを許すまい。

 母には大切なものがある。

 そのためには私のことなど物の数でもないものが。

 そのためになら私の命も、吾子の命も、躊躇うことなく使い潰すだろう。

 母はきっと吾子を御位につけようとするだろう。私にはそれを止めることは難しいだろう。

 でも。 

 母が私を殺すなら、出来ることはないでもない。

 だって、私は母の娘なのだ。母にどれ程かえりみられることがなくても。

 母が受け継いだかんなぎの血は、私にも受け継がれている。

 生きた私に自由はない。

 認められる事のない先帝の皇后である私は、御門の許可なしにはなにもできない。

 でも、身体というものをなくしたなら、私は母のそばを離れまい。母から吾子を守るためにどんな事でもするだろう。

 御門は大祓をなさろうとしておられる。

 私も供奉することを申しつかった。

 そこで御門はおそらく、私に新しい夫を引き合わされるだろう。

 だから、

 きっと母はそれまでに来る。

 母は私を殺すだろう。そうしたら私は自由になる。自由になって母を止める。

 もしも、母が私を殺さなければ、私はどうするだろう。母が私の命を惜しむ。そんなことはあるのだろうか。

 母を思い浮かべると、母よりも先にあの人形の面影が浮かぶ。私は母を見ていたかった。母を見ていられないかわりに、あの人形を見つめていた。あの人形を見つめながら夢のように母の事を思っていた。

 母は夢。

 淡海のそばの事も夢。

 今まで夢見るように生きてきた私は、死んで目覚めるのかもしれない。きっと母だけが私を目覚めさせる事ができる。

 母は私を殺すだろうか。

 殺して目覚めさせるだろうか。

 私は静かに、目覚める日を待っている。


             終

 

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人形の娘 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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