12

 明くる日の白い太陽、塗り込めたような雲のない快晴の下、裏のない薄藍染の下の黒ずみつつある若い広葉の通す暗い光の下に、和久田は、黒い襟を胸にかけた白光、白い腿から細く伸びる黒脚、武藤陽子が直立しているのを発見した。

 武藤は午前の光の下で、直線に切り揃えられた前髪越しに、細い目で凝ッと和久田を見て睨んでいる。額から眉、顔の上半分、鼻までが陰になって埋まっている。色の白い膚からは頭蓋が透けて見える。午前の光の下で、彼は死を発見した。

 普段一緒に登校するフェルミは、今は隣にいない。和久田は普段より早くに目が覚め、身支度を整え、こうして自転車を手で押して登校している。武藤はそれをあたかも待ち構えるかのようにして木陰の下で待っている。ビルディングの陰になっている木陰は二重に暗く、前髪の陰になっている瞳は三重暗い。

 和久田はおはようと朝の挨拶をする。武藤は小さく言葉を返して、和久田が脇に来ると自分も踵を軸に百八十度回って自転車を挟んで和久田の隣を歩く。

「《蟹》のことはありがとうございます」

 どうも、と言うと、次いで、

「道具の形ではなく、自ら活動するヂングというわけでしょう、あたかもザインのように。正四面体の本体部分から蟹の体を構成して、その体に活動させているととれるかもわかりませんが。パルタイが、人間抜きで、かつ自らの知覚の外において自在に活動するために、生物を模したザインに似た特徴を有する器械を開発しようとしているわけでしょう。それは、脅威、だ」

 それは、脅威、だ。

 一音ずつ重苦しさをもって発音する。

 パルタイ、人を殺す《超常》への憎悪に導かれて生き続ける彼女であっても、ただ一つの肉体、細く薄い肉体、高校生という身分は、どれもがあまりにも弱かった。稚児のように細い髪が頭を覆っている。歯噛みする隣につられて視線を落とす和久田は、小さな白い手がいっとう小さく小さく握りこぶしにされているのを発見した。

「ガドリンとジーボーグだけど、フェルミのアパートでも匿うことになった」

「そうですか」

「ニコラウスとフェルミが、パルタイの中での方針の違いでもめてるでしょう。それで、ガドリンとジーボーグの二人もニコラウスと対立しているから、『敵の敵は味方』式で転がり込んで、って話はもうしたか。それで、昨日の《蟹》の件でフェルミとニコラウスが話を持つことになって、あくまでもガドリンとジーボーグの二人以外には《蟹》を差し向けないこと、アパートで二人を匿って、そこにはニコラウスも手出しをしないこと、が決まった」

 二人して角を曲がりやや広い通りに出る。陽の光を正面から浴びる武藤の顔が、端然として赫耀と輝く。細い目の隙間から覗く瞳が、生きたレンズのしぼりである虹彩が、透かした瑪瑙のような褐色に光る。

「ガドリンとジーボーグに加勢して、それでどうするんですか?」

 和久田は武藤を見た。その顔は四月に桜の木の下で彼が見出した至上の輝きを放つ顔だった。光がまっすぐ和久田に向って差す。

「眠りつづけている以上はものを食べることもできない、そうであれば放っておけばじきにジーボーグは死ぬでしょう」

 和久田は二人の保有する命の数について武藤に書き送るのを忘れていた。それに気付いたのは今現に彼女がこのように喋ったからだが、和久田はその後も何も言わなかった。

「今ニコラウスの追撃を遁れ続けたところでジリ貧ということになる。それなのにいったいどうして、ガドリンはあれを守ろうとし、和久田さんもそれに協力しようとしているんですか? いや、あくまでガドリン自身の保身のために近付いているのか……」

「ニコラウスに狙われているのはガドリンもだから、自分自身を守るためにというのもあると思う。どうしてジーボーグを守ろうとしているのかは、おれにもわからない、聞いたことがない」

「不合理です」

「そうだ、不合理」

「で、和久田さんは」

「失敗しても成功しても、結局パルタイの内紛で、人間に被害が出るわけじゃない。ただ本当に内輪揉めなんだ」

「もしニコラウスから先に依頼が来たら受けていましたか? ジーボーグとガドリンを殺すように」

「いや」

 反射的な返事だった。何故?

「パルタイが減るのに? いや、それだから?」

「おれにパルタイは殺せない気がするよ。ザインも動かないんじゃないかと思う、いざあと一撃というときになって……それに、おれが自分の手でひとを殺すとしたら」



 二人は駅前ロータリーに出た。住宅街の網の目をくぐるようにして、同じ高校の生徒に聞きとがめられるのを避けていた。改札口からは詰襟、セーラー服、スーツ、ブレザーの人群れが続々と吐き出されてめいめい散って行く。多くは国道沿いの高校に通う生徒らしいが、ある塊はロータリーのバス停に進んで並び、別の塊、これは一様にブレザーを着ているが、これらは皆高架沿いのひとまわり細い道路に沿って歩いていく。しかしとにかく仕事人と、和久田、武藤と同じ格好の人影が多く、その中に華もまじっていた。しかし和久田の目はむしろ改札からその隣の券売機まで覆う色の薄いファサードの脇の、細く黒い線の入った赤いジャケットを着た男、構えた黒い塊を前にして口を動かし、足許の黒い六面体からだぶついた軋んだ音を飛ばしている男を発見した。

 それはつい昨日イタリア料理店で向かいの席に座った男だった。おそらく同じ赤いジャケット姿で彼は平日朝の駅前に立ちパフォーマンスをしていた。食い違いに並んだ歯の間から時折白い唾を飛ばしながら、雑踏の音に交ぎれて擦れた帯気音を流している。色黒に見えたのは照明の加減だったか、日の光の下で見る彼は、骨と皮ばかりの手など、ひどく青白く見えた。

 和久田がそちらに視線をやって止まっているので、武藤も同じくそちらを見た。

「何ですあれ」

「ボイパ」

 ボイスパーカッション。

 二人が足を止めてその方を見ているのでじきに男も気付き、口の端をきゅっと上げて笑顔を見せた。ゆるいU字に曲がった口からは細い前歯が半ば飛びだし、やはり煤煙のように濃い褐色がわだかまっていた。細い歯がどれもあからさまに黄ばんでいる。

 凝然と睨むように男を見る和久田に対して、男の方はすぐに彼から目を離して他の通行人にもにこやかな笑みを差し向けている。向けられた方は笑い返したり、目を背けたりしつつ、足早にロータリーを去っていく。男はそのまま、時折道行く人影に笑顔を振りまきながら、手に携えたマイクロフォンをめがけて、擦れてどこか歪んだ調子の音をふきこみ続けている。

 二人はロータリーの出口わたりから男の演奏する様子を見ていた。改札口から次々吐き出される人並みの中で、一人はっきりとこちらを見据えて、その手を高く掲げて大きく左右に振っている人影があるのを、先んじて武藤が見つけ、顔を男に向けたきり目は足元に緩く落としている和久田に横から囁き教えた。和久田はぼんやりしていた。目を上げ、平手で指し示された方を見ると華が手を振っている。和久田もにこやかに手を振り返した。

「二人とも珍しいね、どうしたの、わざわざ駅前まで」

「ボイスパーカッションをやる人がいるって聞いて、ちょっと見に来たんだ」

「私は初めて見るんですけれど、川原さんは見覚えはありますか?」

 細い黒縞が入った赤いジャケットの男を見る。華はもっぱら怪訝な顔をして向き直った。

「私も見るの初めて。最近始めたのかな……和久田君、ボイスパーカッションなんて興味あったの?」

「付き合いのある奴にファンが多かったから」

 その時和久田には、黒い革のハットを被り、赤いジャケットを着た男が、演奏をほんの短い間だけぴたりと止めて、滑るように視線を動かして、武藤を、和久田を、華を、三人をひといきに舐めるように見たような気がした。促して先に進む華の足取りに合わせて和久田は自転車の頭を返して押し、武藤はその場で日時計のように爪先の向きを変えて、ロータリーを後に幹線道路の脇を進んでいく。

 車体を挟んで和久田が右、華が左に並んでいる。華の後ろに武藤がついている。和久田がごく小さな声で、しかしわざわざ囁くというほどでない露骨さで、華に呟く。

「あのボイスパーカッションの人、昨日昼食べた時向かいにいた人だと思う」

「ええ、意外。本当?」

「多分」

「なんでそんな小声で言うの」

「いや、別に、何かこれって理由があるわけじゃあないけど」

 強いて言えば単なる勘だ。パルタイと対峙してきたときいつも利いていた勘、よからぬものごとを前にしたときいつでも密かに鳴り渡っていた虫の知らせの感覚、霧の彼方から聞こえてくる鋭い汽笛のような……

「何かよくないことが起こるような気がするから」

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