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『それはそれとして、徹、カワハラさんから私にもメッセージが届いてましたけど、そっちはどうです? 返信までちゃんとやりました?』

 と言うので、携帯電話を見ると、和久田のほうにも連絡は入っている。むろん和久田も来ているのは知っていた。送信から三十分は経っている。返信しようとはしていたのだが、《蟹》の遭遇にフェルミからの呼び出しと、立て続けに急用が入り、かなり遅れていた。フェルミは自分の携帯電話の画面を彼に見せびらかした。『今日はありがとう! また別日で一緒に行こうね』……フェルミは『おかのした』と、指を三本立てたハンドサインの絵文字を返している。

 部屋を辞した和久田は金属の幅のせまい階段を下りながら文字を打ち込み送った。文字はディスプレイに映り、住宅街の彼方の通信端末にも飛んでいくはずだった。

 華は登戸から電車を乗りつぎ最寄り駅にたどりついていた。急速に暗くなる中を早歩きでいたところに携帯電話のアプリが遠くからの通信を取得したことを発見した。もうとっくに家に帰りついているだろうに少し、そう、少し返信の遅かった和久田から、ようやっと返事が返ってきた。

 目から星が出そうだった。一目二目と見て、それ以上は人目に付きかねない場で眺めることができないと彼女は思った。心臓が破れる寸前まで膨れて、握りこぶしさながらに縮んでいる。華はいやましに足取りを速めて家へ帰り、靴を脱ぐと、すぐさま部屋に籠りベッドに転がった。

 和久田の精神は、華からは窺い知ることのできず又他を言い様なく惹きつける何かしら深遠なものを備えているように感じられたが、その文章は小難しいところのなく平明で、なおかつその言葉に嘘のないことのわかるものだった。平素の明るい実直さの奥底の暗がりに、彼自身厳重にさしこめるものがあり、くろぐろとした璧玉の瞬間の輝き、彼女が見た瞬間の魅惑を、華は今もまた彼が書き留めて、星の全球を飛び交う電子によって送られ、鉱石の込められた端末の、赤青緑の三原色で覆われた液晶に映し出されたものの上に感じ取った。

 また返事を返そうと文字を打っては消し、打っては消しする繰り返しが、心臓の鈍く痛むほどの鼓動がほんのわずか強まり弱まる波に同期しているかのようだった。本当に胸が痛い。比喩として使われる恋の甘やかな痛みが生き生きとした実感を伴って華の身に心に迫った。ついにメッセージを送る。血が顔に頭に持ち上がって全身をぐるぐる回る。のぼせあがり、「千々に乱れ」、端から端まで破れ砕けそうになる。

 交わしたのは決してそう長くはない、二言三言のごくみじかい積み重ねだった。ふたたび送られてきたメッセージを見た和久田が思い出すのは、あの笑顔、水族館の屋外席に腰かけて水飛沫に濡れる和久田を見て笑う彼女のまばゆさであり、ふと川原の手が思い浮かんだ。まるい輪郭を具えた手の指先にも丸々とした草の上の露のような爪が載っている、しかし彼女の手は今日のあいだ一度でさえこうも激しく旋転していただろうか?

 重なっているのはあの、枯れ枝のように細い筋張った手だった。彼は川原のではなくスパゲティを食べるあの赤いジャケットの男のフォークを持った手を思い出しているのだった。銀の柄の四つ叉に分かれた先端が細く曲がる墨色の黒い束にさしこまれてひねる動きが髪を梳く手付きの荒さで、いじくりまわされて千々に乱れた細い房々に指の先を絡ませている、華は、髪にふれる自分の手に和久田のひとまわり大きくこわい手、幼少の時分から見上げていた父の手指に似た太い指が重なるのを夢想する、送った笑顔の絵文字に同じ笑顔の絵文字が返されて笑っている。尖るように激しく輪郭の浮きだした彼の手指の燃えるような匂いがにわかに迫り、華はそれに触れているように感じる。

 彼女が夢想するのは黒焦げになった愛の化身だった。白熱する鋼鉄の太陽に焼かれる、黄砂の砂漠の彼方に、厚いきれを纏った《Liebe》が、燃え盛る灰の雲を抜けてきたことを示す黒々とした煤に覆われて額を光らせている。鳥の巣のように細く撥ねのある髪は炎に燃えて縮みあがっていた。燃える焔の城の中で壊れなかった全身を覆う堅い肉の鎧は、腕を脚を胴を縛りつけて、彼の胸の腑で輝く紺色の篝火を収めているのだ。

 薄暗い青い篝火に彼女は触れる。棘のある手に手を触れる。指の根元の骨の組みあわせのつばくみが赫く赫く並んでいる。互いの手をとりあうように握りこまれた二つの手の組みあわせの片割れが互いの頬を撫でる。頬を撫でる乾いた熱い指先。燃えるように赤い頬に包みこむように触れる掌から遠い死の匂いがする。指の腹で煤を拭うと土色の頬が血に赤くなっている。瞳の奥に青白い炎が見える。

 彼女は夢想する。少年の赤い頬にキスをするさまを。林檎にくちづけし林檎を齧るように。



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