10
アパートの二階のフェルミの部屋に上がると、青いソファにジーボーグが横たわり、テーブルの椅子にフェルミとガドリンがついている。蜘蛛の巣を象ったレースのスカート、革の服の腹のうえで輝く山羊の頭骨、胴だけを覆う衣服、塗装された金属鎖、黒に青のゴスパンク衣装のフェルミが、卓上に置いた機械のスイッチを押し込んで立体映像を消したところだった。外はもう暗くなっている。カーテンが閉められている。室内灯は壁際の電球が一つ点いているきりで、フェルミの頭髪の方が青く煌々と強く光っている風情さえある。大きな目が和久田を見る、不吉な青色の光る瞳が動く。テーブルの余った席に座る。
『ニコラウスと話していました』
「何だって?」
『見てのとおり』
と低く挙げた手で斜め前のガドリンとソファの上のジーボーグを順に指す。
『今ここにガドリンとジーボーグがいるでしょう。パルタイ共通の中立地帯でもないのに。私が、つまりこの問題に関する第三者であるような別のパルタイがいるので、この場に攻撃を仕掛けにくることはないといっても、敢えて継続的に匿い続ける意志があるのかどうか、長期的には敵対する意志があるのかということで、向こうから通信がかかってきたわけです』
和久田は横目にガドリンを見る。しかし彼は何も言わない。これまで会ってきたときと同じように人間の姿をして口を鎖して椅子に座っている。何を思っているのか表情から伺うことができない。それはガドリンが和久田にとって見慣れないスラヴ系の顔貌をしているからか、あるいは単に付き合いの短さから細かな表情の差が読み取れないというだけかもしれなかった。
「それで、どう言ったの、フェルミは」
『べつにどうも言いませんて、何を言っても何が変わるでもない……』
ジーボーグは目を鎖して静かに眠っている。胸も腹も動くということがない、彼女は呼吸の一つないままであるかのように深い眠りを眠っていた。
「今回の件だけじゃなくて、《超人》へのルートのことでも対立しているでしょう。大丈夫なの」
『パルタイの目的は殺し合いではないので。《超人》に到達することこそ最終目標で、それ以外は些末事です。ニコラウスと私の対立もあくまで《超人》に至るための方法論の対立に過ぎず、先鋭化した暴力的対立に発展する必当然性はなく、今こうして私の住居にガドリンがいることについてニコラウスが多少苦言を呈したところで、だからこのアパートを破壊しようだとか、ジーボーグやガドリンとついでに私まで殺そうとか、そういうことにはなるはずがない』
「そうなのか」
『そのはずです。正直、ジーボーグの処分であるとか、彼女を擁護したガドリンについても同様に処するであるとか、言ってしまえばそれはパルタイ的発想ではないわけなんだけれども、ニコラウスの中ではそういうことにどうやらなっているらしい。心境の変化って奴なんですかね、わかりませんが、だとしても嫌な心境変化です』
「ニコラウスの刺客のヂングに会ったよ。おれを狙ってドミトリの《門》で現れて、攻撃してきて、《門》で逃げていった」
『何ですって?』
「いや、多分ヂングだと思うだけで、中に人が入っていないかちゃんと確認はできなかったのと、周りにそれらしい人影がいないかもチェックできなかった。コンラートに助けてもらったから、彼から話を聞いてもいいかもしれない」
フェルミの子供の顔がふいに伸び縮みして、鬼の面のようにしかめられると、細くなった目の隙間から青い瞳が鬼火のように見える。
椅子から飛び降りた――子供の姿だと、脚が短いので床まで届かない――彼女は何も言わずに外に出て行く。手には吸盤で吸い付けたような角度でタブレットを持っている。
家主が消える。和久田はすぐ隣のガドリンとソファのジーボーグと共に残される。
「ガドリンさん、どうして……」
どうしてここに来たんですか?
どうしてジーボーグを守ろうとするんですか?
聞きたかったのはあるいは両方だったかもしれない。しかし和久田はどうしてと言ったきりどちらも言うことができなかった。
だからガドリンは途切れた言葉の先を推論してその質問に答えた。それは結局和久田が問おうとしたことの一半を示してはいた。
「わたしはジーボーグにどうか寸毫でも永らえてほしいと思っている。それがまたどうしてかと問われるとそれに答えることは出来ない。しかし敢えて言葉に表すなら一種の愛によってわたしは行動させられているのだろう」
愛と言うガドリンの顔を改めて見たが、彼はこれといった表情を浮かべているわけでもなかった。
「愛ですか」
「言ってみたというだけだから、どうだろうか」
「愛って、何だと思いますか」
部屋には通りに面して窓が一つあった。そこから暗い夜が少しずつ部屋の中に流れ込んできた。ガドリンはしばらく口を閉じて考えていた。針金のような髪が夜気に光っている。鋼色の瞳がソファに横たわる影の方を見ると、おもむろに立ち上がり、灯りを背に滑るように向かっていく。
青い布張りのソファの上に点々と星が光る黒いドレスの女が横たわっている。長く伸びた裾と脚先とが座面の端からたれさがってちらついている。ガドリンは閉じた瞼を見下ろし、やがて跪いた。
「愛は願いだ」
脈をとるように手をとり掲げる。電球の光は部屋の端に来るとほとんど退いており、いっそう暗い夜気の中で手指の先の丸い爪が真珠のように淡く光っている。
「他を愛するとして、その対象を強く、長く、よく、願わくばとこしえにあれかしという願い……願いだ。そうではないのか」
和久田は答えようとしたが、そのとき部屋の扉が開きフェルミが入ってきた。
『ニコラウスから言質が取れましたよ。今日の夕方、ついさっき、ニコラウスの使者がヂングを操ってガドリンに加勢する一人に攻撃を仕掛けた、彼とコンラートの攻撃を受けヂングが損壊したため撤収した……徹、無事で何より』
「ありがとう。どう、向こうのヂングについては、何かわかった?」
『《鎧》のカメラ映像を確認した感じでいうと、確かに中に人がいる様子はない……本当に、周囲にはこれを操っているらしい人影はなかったんですね? ひとつも?』
和久田が見たところではそれらしいものは見えなかった。何故フェルミがこれを問題にしているかといえば、複眼の搭載されていることと併せて考えると、転移してきたかのように見えるのは一種のブラフで、つまりどうもこのヂングは転移先からの遠隔操作で駆動している可能性が大いにあるということで、このような複雑な機構を備えた器械をパルタイが人間に与えるという例はこれまでないことだった。
パルタイが使う道具の中には遠隔操作が可能なものも自立駆動するものもある。しかしそのような複雑な機構を作るにはより大きな《生命への意志》由来のエネルギーが必要である。人間に紐付けされたザインよりも自立したヂングには作成にあたり多くのエネルギーをパルタイ側が負担しなければならない。少しでも節約してこれを多く取り込みたいパルタイからすれば、そのようなものを作るのは不合理なことで、これまた前例のない口減らしを現に提案しているニコラウスがその不合理を理由なく行うだろうか……というのが、ここで共有されている疑問だった。
『コンラートにも聞いておいた方がいいとして、どうやら少し本当に厄介なことになりそうですね、これは』
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