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 骰子が飛ぶ。骰子が回り且飛ぶ。残像を曳き曳き飛ぶ。和久田が右に逸れる。そのまま振り向きもせず――骰子は首も顔もないから当然振り向かない――一直線に蟹のもう片方の鋏をしたたかに打つ。関節の傍にめりこんだ立方体が砕く、甲殻を砕く、鋏の先があさっての方向を指す、蟹の前腕が関節から分離する。

 鋏の先、正四面体まで突っ込んだ骰子は斜め後ろに弾かれて、とびはねるような軌道で抜けていく。和久田はのけぞった蟹の脇から低く滑り込んで、落ちていく鋏を掴み、骰子といれちがいに蟹の背後に回る。

 鎧を形成する泥が掌から滴り、供給が断たれて崩れ落ちていく甲殻をすかさず覆い、粘性の泥を鞭のようにしならせて振る。途端に固まる。先端が重くわずかに曲がったロッドになる。長さは腕よりすこし短いほど。片手で持っている。痙攣を終えた蟹が脚をざわめくように動かしながらその場で回る、回ってコンラートを和久田を見る。

『これがニコラウスの刺客のヂングかね?』

『さあ』と和久田。『多分そうでしょう、というくらいしか。少なくともザインではない』

『人間が入っているようには思われない』

『欠片でも持ち帰ることができれば何かわかるかもしれませんけれど、今分離した鋏はそれだけで崩れました。解析できるんでしょうか。いや、フェルミがあの機械で何をやっているのか、ヂングやザインのパラメータがどうなっているのか、ぼくは全然知りませんが』

 蟹は残った鋏を構えて前後を警戒している。再生しないらしい。和久田が話している間にもコンラートは戻ってきた骰子を掴んで仕舞い、次いで取り出した糸を垂らしている。垂らした糸の先にヒトデのような手形を下ろしている。糸が波打ち、広がり、帯のように伸びていく先の手指が伸び明確な五指を持ち、伸びる帯が半ばから持ち上がる。意志を持っているように持ち上がり、五指が畳まれて広がる。

『半ばは翻訳の問題だな、一半には時勢の問題もある。一世紀前であったならばこんなことはできなかったであろう、良きにつけ悪しきにつけ地口というものの地位はこの百年で格段に上がっている。延長という物体の空間的広がりを意味する観念が、身体機能を拡張する器物の特徴を意味する観念として用いられることが可能になる』

 意志を持っているように……意志に従っているように。コンラートの。

『だから、翻訳と地口の問題になるのだ。そういうわけできっとこんなものも許される……

 淀みのない動きで蟹さして腕が向かう。指がひらいて鋏をつかむのではない。鋏がひらくのを回避して甲に巻きつく。節の隙間から覗く肉のように、あるいは鎖帷子の隙間から覗く布地のように、平たい腕に細い光の縞が浮きたつ。

 蟹の複眼はコンラートの方を向いている。和久田はがちゃがちゃと動いている脚の根元を狙って棍で打ちかかる。甲殻は棍をにぶい音を立てて撥ね返し、正面から食らって軋み、節を砕かれて一本、二本と折れる。

 脚の一本が振り上げられまっすぐ落ちかかって和久田を狙う。棍でおさえ、掴んでから棍で打つ。掴んでいる接面から蚕食する音が小さく立って、蟹の赤い光点持つ甲殻が僅かずつ削れている。さらに脚が二本振り下ろされる。手を放して飛びのく影を尖った脚先がかすめる。巻きついたコンラートの腕は四面体の上に這いまわり指先で表面を叩いている。

『やはりというか、どうもこれが本体らしい。脚や胴の部分はブラフだ、filie Fermi』

 コンラートが拘束の範囲を広げていきながら第二の腕を懐から取り出し、その腕が一本目と同じように急速に肥え太り膨れていく間、蟹はしきりに暴れて、じりじり巻きついていく腕をひきはがそうとする。コンラートは多脚を狙って縛りつける。和久田は棍を振るって本丸の三角形の組み合わさった立体の頂点を狙う。

 跳躍。

 全身に散った青が煌ら煌ら光って弾け、空に向かって落ちる、蟹の直上をとる。切り替えて真下に落ちる。六メートル近いフリーフォールの加速が先の太い棍の一点に集まる。振り上げた棍を、体全体を前方に回転させることでヂングに叩きつける算段を付ける。最大の加速度で振り下ろされた一撃が、正四面体を打ち砕くはずの点を通り過ぎて体が中空でくるくる空回りする。

 蟹の体がアスファルトに潜航し、消えた。いや、反省してみれば、和久田もコンラートも、蟹が自らの直下に開いた《門》の字のゲートを通り、自分がくぐった後は門を閉めることでコンラートの拘束からも脱したことはすぐにわかった。ガドリンはニコラウスにも、そしてあるいは彼の刺客にさえも、《本》の力を貸し与えているようだった。

 回りながら路面に突っ込んだ和久田は、起き上がって蟹が消えた点をじっと見つめた。何一つ変わるところのないアスファルトだった。マゼンタの深い切れ込みが見え、目を疑ってまばたきののち見返すと、突き刺さったように見えた色彩はどこにもなかった。

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