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 問題はそのあとすぐに起こった。人気のない住宅街の網の目のような道を歩いている、街灯がぽつりぽつりと点きはじめた頃に、無人の一本道で和久田が振り返ると、突然塀の手前が湧き立ち、砂漠の熱波が頬をかすめて唸り、光を吸いつくす黒と原色の赤を曝して、蟹と四足歩行機械の合成物に、その胴体の三分の二ほどの大きさの正四面体を埋め込んだような何かが這い出てきた。

 十本は下らない細長い脚がぶるぶると震えながらぎごちなく前進する。四面体の影から生えた羊の口が低音で鳴く。正面に頸はなく、首の欠けた胴にへばりついた赫い複眼がぎらぎらと光っている。振り上げられた長い鋏が二丁あって、獲物を見定める蛇のようにゆらゆら揺れる。脚や鋏は滑らかではない。全体に甲殻の上に棘があり、それらとはふつりあいに斑紋のように点々と小さな赤い光が塊になって一部を覆っている。

 ややもするとそれはパルタイが造り人間が使役する動物機械ザインの変種のようにみえたかもしれない。しかしあのドラゴンのパルタイ、赤いニコラウスが人間にヂングを与え、変幻自在に化ける器械でもってガドリンを追い詰めていることを知っていれば、アスファルトに突き立てるいきおいで脚を振り下ろし振り上げする得体の知れない《超常》がそれであるらしいことはわかった。和久田は肩にかけていたポーチを地面に軽く投げ置き、いつ何時動きがあってもいいよう腰を落として構える。

 薄闇の中の街灯の光の下に、ぽっかり空いた円の上に這入る。単眼のいくつかが白々と輝く。それを合図に一瞬姿勢を低くして化生は跳びあがった。

 鋏がひらいて腕が一気に伸びる。一歩下がった和久田まで届く。顔から腕、背まで毛が逆立つ。軽く突き出した左腕に裏返るような感覚があり、黒い鎧がひらいて、鋏を受け止める。

 バタフライナイフを滑らかに開くよりも簡単に腕から胸、脚へと鎧が展開していく。顔を覆う鎧は目が剥き出しだ。愚者金色の瞳に青い火花を灯して地面から足を離せば、腕を挟んでいた蟹ごと体が浮きあがって後ろに

 和久田の《鎧型のザイン》、力の方向を操る《流転》と高エネルギーを放射する《熱》の力を具えた天道虫型の動物機械は彼の左手首のブレスレットに収まっている。全身を覆う鎧ははじめ水の澱、地下の汚泥のような粘性の高い性状をしており、左の腕輪から溢れ鎧の形をなす。脊椎に沿って、また拳の関節に棘がある。先端が青く光っている。他にもステンドグラスの装飾のように全身そこかしこの黒い鎧が抜けて光っている。

《流転》の力は引力の向きを変える。不意に姿勢の制御が利かなくなった蟹は手足をばたつかせた後閉じていた鋏を放す。和久田も思いのほか蟹の力が強いのでこれを手放し、引力の向きを変えて回るような動きでとびあがり、向きの上下の振り分けを調節して電柱の頭より少し上でぴたりと止まる。二階の窓から見えないように、そして遠目に見つかるような高さにまで上がらないように注意する。和久田は考える。蟹は跳びあがってくるだろうか?

 ガドリンと共闘することを決めた和久田も、ニコラウスにとってはジーボーグ抹殺の妨げのひとつとなっているにちがいない。少なくともその頭数の一つとして数え上げられているからこそ、少なくともニコラウスの刺客は主の命に従ってこうしてヂングを送りつけているのだ。彼らの力で人を殺すことはできないが、死なない程度に傷付けることはできる。警告を発するにはヂングを使うのはちょうどいい策ではあった。少なくとも使用者と対象が共に人間であるかぎりは。

 蟹の体高は一メートル二十センチ程度で、中に人間が収まっていられるようには見えない。無人だとすると周囲にこれを操っている人間の姿があるのではないだろうか? 周りを軽く見渡してみても、民家の屋根が邪魔をして遠くまで見渡すこともできないためもあって、それらしい影は見当たらない。見たところ前面にある複眼で視野を担保しているらしい蟹は、その部位をぐいと持ち上げて上に向け和久田を見る。長さのために根元から一度体高よりも高くもちあがってから折れ曲がり接地している脚を深くたわめて跳ぶ。

 今度は蟹は和久田の座標を超えて高く跳んだ。ひっくり返った蟹の背からのびる鋏が二つながら斬りかかる。

 和久田が引力の向きの変更をやめ地面へ落ちかかるのとほとんど同時に、片方の閉じた鋏は防御を抜けて鋭く腹に刺さり、押し出されて落ちていく体に重い痛みが連れ立つ。棘に覆われて鋸刃のような鋏が閉じると挟まれた脚の鎧は音を立てて削れ虹色の火花を散らす。きりもみ回転しながら落ちる和久田は信じられないものを見た。

 逆立つように忙しなく動き回っていた脚が、その細い鉄骨のような尖端がにわかに膨れあがり、二又に弾けたとき、足先は棘だらけの鋏に変成していた。蟹の体はゆるく回転している。上と下が再び逆転し、両手指の数ほどの大鋏を広げながら和久田と同じ速度で落ちていく。無数と言いうる一歩手前程度に見えていた蟹の脚の、さらに二股に分かれた先端のいびつな広がりが、森の暗がりのように自らの上に落ちかかってくるのを和久田は感じた。彼は蟹の複眼がまた白く光るのを目撃した。

 光の瞬きが表面で弾けたその時、斜めに軌道を変えた和久田は落ちる、落ちる、斜めに落ちて鋏から逃れる。角度のある分着地が少し遅れる、少し先に着地していた蟹が猛烈な勢いで敵の着地点に向って走る。足先はもう足先の細い形をとりもどしている。

 生物であるようにはみえない。だから順当に考えればこれはザインではない。和久田は考える。蟹のように見えているが胴体や脚は決して本体ではなく、むしろ正四面体のヂングから胴と脚を生やされたものが今相手取っている蟹の正体ではないだろうか?

 素手ではしかし分が悪い。距離をとって攻撃できる武器が必要だ。それもできる限りレンジの長いものが……

 後ろ、彼方で炸裂するものがあった。小さな飛翔体が和久田の左をかすめて飛んでいき、子を描きつつ黄緑色の尾を引いて飛んでいき、防御にかざされた鋏を重く打ち据える。わずかに砕かれた甲殻の破片を散らして撥ね上がった球体には中心をとおる一本の縞が入っている。撥ね上がった球体が元の軌道をなぞるように戻っていく。

 軌道の先には蝙蝠のような黒いコートを着て山高帽を被った、鮮やかな黄緑の髪を隙間から光らせている、蘆原の黄昏時に似つかわしい湿った土色の肌の男が、革のグローブを着けた手に球体を握っている。

『Filie illus! それらしい反応があったから見に来たが、当りだな、ひとまずは』

 球を握り潰すように手を閉じ、開いた手を宙にかざすと、黒い瞬きが現れるように見えた。黒い瞬きがにわかに膨れあがり正六面体を成して浮遊する。それを指の三点で支えておさえる。

『《流転》の長所はアリスの言う《超常》以外のベクトル、つまり物質の運動エネルギーにも観照可能であり、対象の属性を問わないこのような性質は彼ら少数のパルタイの権能特有のものではあるが』

 軸足そのまま、片足を大きく前に踏みだす。両腕を開き胸を曝すようにして、前屈みに上体を低くする。六面体を持つ片手は肩よりもわずかに高い位置まで上がっている。

『自前の肉体やライプの構成要素のエネルギーに干渉するくらいであれば他のパルタイ、たとえばこのコンラートにも可能である』

 アンダースローの姿勢から投擲した第二弾は、ひと目には原形を察しえないほどの回転を加えられて、残像を残しまっすぐに化生さして飛び迫った。

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