第二章 和久田徹、ニコラウスの《Umbäuter》に遭遇する。

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 デートの日取りは思ったより早くにやってきた。その週の終わり、日曜日に独逸部、第三言語の学習とその言語圏の文化にふれることで多角的視野を持った生徒の育成を企図する部活動、の面々で品川の水族館に行こうという話になって、ざっと六七人程度が名乗りを挙げていたのだが、品川駅で降りた和久田は彼に遅れて数分、集合時間の十五分前に改札を出てきた華を除いてフェルミとさえ顔を合わせることがなかった。

 和久田がおはようと言うと華もおはようと言った。

「他に誰も来てないの?」

 と聞く彼女が言うには、今朝になってフェルミから急遽欠席の連絡が入ったということだが、フェルミが姿を消したことに何やら裏にある企みを感じ取らないではいられなかった。集合間近になって二人しかその場にいないことに、あのいやらしい笑顔の同級生が嬉々として根回しをする様子が浮かぶ。

 集合十分前になって山本、リルケを愛するツーブロックの同級生から欠席の連絡がきた。曰く西門も来れなくなったという。いよいよ怪しかった。

「もしもし、フェルミ?」

『はいはい』

「山本も西門も、谷村さんもか、全然来ないんだけど、フェルミも結局駄目か」お前の差し金でこんなことになってるのか?

『セッティング、しといたんで。お膳立てですよ?』

 くすくす笑うので諦めて電話を切った。武藤ははじめから来ないことになっていた。

「どうだった?」

「駄目だってさ」

 華の風貌は言いようない可愛らしさで、というのも姉妹のない和久田には華が着ている服の各部が今一つわからない。伯母が喋っているのを聞きかじるだけでは何もわからなかった。

 兄を真似て無難な格好で来たのは結果的に正解だった。和久田家の人間は軒並み美学的感覚に優れていて、国立の芸術大学で出会った両親の下に生まれた兄も、弟には何やら知れない洒落た映画を見ながら、映画の中の人物のような服を時たま買ってきては着古したものを譲っている。お下がりを着るのに馴れていることもあり、兄が古着屋で見繕ってくるのとそう変わらない質感なこともあり、弟も文句を言わずに譲られたものを貰っていて、たとえばついこの前貰ったデニムの上着を着てきたのが今日だった。

 淡い色の胴に丸い缶バッヂがじゃらじゃら付いている。それを見る華は高校生らしからぬ装いにいつかの自分の確信をいっそう強くする。彼はほかの多くの高校生とはどこか違っていて、じじつそれは装いにもあらわれている。

 和久田はそうやって目を輝かせている華を見ていない。電話をし終えて戻ってきた後、少し構えて、偶然にそうなったという風に装われたこととはいえ異性とたった二人きりで出歩くことの先行きをどうしようか悩んでいた。二人きりで水族館に行くっていったって、どうやって回ろう? いつかフェルミと来た時の順路が頭に残っているのが、口車にうまいこと乗せられ通しな気がして何とは言わず嫌だった。

 華はイルカを気に入りぬいぐるみも買った。薄暗い屋内展示を過ぎて少し暑いくらいの屋外プールに来ると円形のアクリル板の水槽の向こうで数頭のイルカが泳いでいて、ホイッスルに合わせて高く跳び、プール中央に吊るされた白いボールを突いてみせた。空が青くイルカの膚はつるつるしていた。段々畑のように背凭れのない椅子の配置されたコロシアムのような客席には老人から赤ん坊までが着いて六割五分以上を埋めている、ボールを突いたイルカが着水してあがる飛沫に歩きはじめたばかりの子供らが明るく笑う。

 隣で笑い声があがる、和久田は横目で彼女を見た、明るい笑顔に奥二重の瞳が光っている。全体に小ぶりの丸い輪郭で、昨日フェルミが茶化していた鼻筋は、組になった曲線を継ぎ目なく繋げたようなつくりをしている。一体に柔らかい印象の華は、異形であるフェルミとも生きながら死んでいるような武藤とも違って、生きている生命の感触があった。もしも愛らしさを感じているとしたら、もしかするとそれが、一番……

 外への注意を払っていなかった和久田の目の前にイルカが着水した。高く撥ねる水が飛んで前にいた観客がきゃあと脇に避けた。微動だにしなかった和久田は正面から顔に水を受けた。思わず目を瞑る。目を閉じて見るともなく前を見る。

 ぱっと笑い声が弾けた。濡れた顔と胸をさらしている和久田に目を丸くして華が笑っていた。彼はかすかに臭う水を手で払ってにっこりと笑った。

 昼過ぎに水族館を出て、どこにでもある安手のイタリア料理店に入った。

「何にする? おれはミラノ風ドリアとドリンクバーでいいんだけど」

「私それにわかめサラダにする。……サラダ、一緒に食べる?」

 めいめい飲み物を注いで、喋っている間に注文した品が運ばれてくる。丸い皿が縁から音を立てている。二人は巨大水槽の中を泳ぐ二メートルを超える巨大魚や、暗い水槽の中で沈んだ色をした南米の熱帯魚や、岩盤にはりつく色とりどりのイソギンチャクや、浮遊しながらライトアップの色彩を白い全身に映して眩暈のように変わる水母について、あちらからこちらへ、とりとめもなく話した。華も和久田も笑顔だった。だが途中彼はふと前を見、目の前を追い越して彼方を見、彼女を見ていなかった。

「フェルミちゃんから連絡来たよ。二人きりで行かせてごめんだって……和久田君?」

 和久田は二人の向かいに、彼に正対する姿勢で壁際のソファに座っている男を目にとめていた。それは二人に続いて入ってきた男で、やや黒く焼けた肌をしていて、ワイン色に光る履物のほかは全身真っ赤で揃えたジャケット姿の、鼠のような細い目をしていた。

 男はせいぜい背の低い和久田と同じかもしかするとやや低いくらいの背丈で肉付きも薄く、腕も脚も細かった。濃い紅色のジャケットを着たままサラダ、スパゲッティ、ドリア、ピザ、ステーキ、ハンバーグ、種々の料理が乗っていただろう皿をすべて空にして両脇に高く積み上げ、今コーヒーを一口すすり、黒いイカスミのスパゲッティをフォークにくるくる巻いて、ひといきに口に入れて噛んでいる。大口を開けたその歯はほとんど噛み合わずに互い違いに生え、歯と歯の間が墨で黒く染まっている。

 あの小さな体のどこにそれほどの食物を収めることができるのだろう? どっかりと腰を下ろした男は今度はグラスに入った赤ワインをぐいと飲み干して店員を呼び、追加に白ワインを注文している。

 あるかもわからない薄い唇を紙ナプキンで拭いた男がちらりと和久田を見た。鼠のような目が不意に鋭く向かう。和久田はさっと目を逸らして、華がそれまで呼びかけに答えるのをじっと待っていたことにはじめて気付いた。

「フェルミちゃんが行けなくてごめんだってさ。どこ見てたの?」

「後ろの……」

「うわ」

 声を落として首をすくめる。男はふたたび食事に集中していた。華が体をよじって背後の席を見ても気にする様子がない。

「ああ、すごい食べてるね。あの人見てたの?」

「うん。ごめん、気が散ってた」

 会計を終えて出て行く段になっても男はデザートのアイスとティラミスを食べているところだった。

 二人は京急線で川崎に出ると南武線に乗り換え、北上する線路の途中で一人は電車を降り、一人はそのまま残って北へと向かった。降りた口から首を横に向けて見ると明るい夕焼けが見えて、夕映えの柑橘の色の眩しさに和久田は目を瞑った。赤いジャケットを瞼の裏に残しながら。

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