5
コンラートが開いた門の前に立っているその足許に、赤いビニールテープで大雑把に丸く囲われたスペースがひらいていたのは、ドミトリの《門》が常に設置される場所を示すものだった。コンラートはその赤い陣の中に立って言った。
「ガドリンがいて、ジーボーグがいて、すると最後の見慣れないおまえは、この二人を追っているニコラウスの尖兵かさもなくばガドリン御用達の助っ人ということになるわけだが、どちらか?」
「彼に依頼を受けて来ました」
「
「フェルミののモデルが顔のない山羊だとかなんとかは、一応聞いたことが」
「ナイトゴーントNightgauntだな。原典では奴らくすぐるんだが、《流転》の力でちょっと具合が変わった」
「でもニールスもドミトリもフリオロフも彼らの化けるものの元が何なのか自分は知りませんよ、あなたが何であるかも」
「まあそれはどうでもいい、おれのことはな。問題はニコラウスだ。パルタイ【
コンラートは立てた指で和久田をさして、一歩二歩前に出て赤い線を出る。彼は昨日のガドリンが学生服を着ていたように、パルタイ共通の黒と光の装束ではなしに、濃紺のシャツの上に真珠白色のスーツを着ている。
「さあ、フェルミの子、ガドリンも、座るがいいさ、さあ、さあ、さあ……」
ジーボーグはソフアに寝かせられて上から薄い毛布がかかっている。座るのを待って話す。
「どうだろう、
「わかりませんよ」
「ドラゴンだ」
にっこり笑うと口角がきゅっと上がる。
「地獄の底に繋がれた赤い竜だよ、あれは」
「赤い竜?」
「じじつ《赤》だからな。彼の与えたヂングの光も、まあ、赤く光ることに変わりはないだろうさ。ついでにそうだな、フィリエ、こいつは何だと思う?」
「さあ」
指されたガドリンが止めようとするが、制止よりも早くコンラートが歯を剥き出しに言ってしまう。
「ヴァンパイア、さ」
「イーをアイに割るな、ヴァンピール、だ」
「ナイトゴーントやブロブよりも古い、遥かに古い怪物だな。スラヴの、ギリシアの、血を吸う屍人だ。バルカン半島から、そう! ルーマニア辺りまで広がっていったんだっけ、それをブラム・ストーカーが適当に聞き書きしてあんなものができたわけだ! ドラキュラ伯爵だよ。フィリエお前も知ってるだろうドラキュラくらいは。なに、でもいいだろう、ガドリン? お前も結構……いや、すまんすまん、これもどうでもいいことだったな。
それから何だっけ、ガドリン、あのニコラウス配下の人間が使うヂングは何か特徴があるんじゃなかったか、聞くところによるおまえの話によれば」
いっとき腰を上げて前に出ていたガドリンがそこで座りなおして脚を組んで言う。
「化ける。姿かたちが自由自在、変幻自在だ。炎は吐くが、蛇を洪水さながらの量とりだして噛みついたり、獣の脚で圧し潰しにきたり、それから蟹のはさみ、細長い上下に開くはさみも使っていたな、蝗の翅を生やして飛んでくることもあった。あれのオリジナルが竜なのか、正直にわかには信じられない。そのくらいには次から次へと形を変えて、手を変え品を変え襲ってくる。だから、カフカと今は呼ぶが、君も気を付けてほしい。ニコラウスはもしかすると、フェルミの《鎧型のザイン》を見てあの男にヂングを与えることを思いついたのかもしれないから」
四月の半ば過ぎに埋め込まれた《鎧》の核、螺子の回転のように駆動し、《流転》に次ぐ第二の《熱》の力を噴き出すエンジンは今も和久田の心臓に埋まっている。時がくれば駆動する。
それはフェルミが《超人》、パルタイの最終目標点に辿りつくためのもう一つのルートとして創案し、和久田のうしろ暗い願いを介して肉付けし、その肉体に縫いとめる形で仕上げたものだった。起動、駆動の始めに、フェルミと同じにタールのような粘性の黒い液が和久田の身体を覆い、それがあるいは固まりあるいは流れ落ちて、青とくすんだ金色が光って、それが《鎧》だ。
――早く五月、いや四月の終わりには既にパルタイの一たるマリヤが、力を人間の体に被せるように展開させるザインを作り出すことはしていた。しかし腕に巻きつくのがせいぜいで、なおかつパルタイの力を人間に装わせるということ自体フェルミのあてこすりとしてやったようなものだった。《鎧型のザイン》に積極的に興味を示さない他のパルタイも敢えてフェルミを真似ることはなかった。五月、六月と過ぎて七月になろうという段になって、いわば敵方の総本山から動きがあるのか。
「そのヂングは、人間が纏う形をしているということですか?」
「全身鎧だったかどうか、常に全身鎧だったかどうかは、確証は持てない。しかし単なる道具の形に留まるものではないことは確かだ。自在に膨張し、変形する」
「それで本当にザインではないんですか」
「色で一目見ればわかる」
和久田はかつて自らに与えられたささやかなヂングを思い出す。手袋の形をして、向かってくる力の向きをほんのわずか変える程度の力しか持たなかった青く光るヂング。あれと本質的に同じものである或物が、それほどの形を持ちうるものだろうか?
もしも可能だったとして、それは……
陽が沈む。
華は二人と別れて改札の前まで来ていた。二人は駅前から伸びる街道を南に下って高校の前あたりで武藤は高校周りの住宅街にフェルミは信号を渡って東へ向かうはずだった。一度別れたきり連絡を入れておいた和久田は戻ってくることもなく、返信ひとつないのをみるとメッセージアプリを開いてもいないらしい。
フェルミは色恋沙汰にかかわりあうつもりはない様子だった。武藤は興味を持っていないという点ではフェルミと共通項がないではないが、そこで不安を拭えないのは、先のカラオケでの武藤の反応があまりにのっぺりと、そしてつるつるして、およそ掴みどころのないこと、露骨に言えば仮面を被ったようなふうにみえたことだった。それが一時の彼女の狼狽ぶりと余りに不釣り合いだからでもあった。
不安に思うのは彼女の言葉を信頼していないからだ。それは……違うだろう。自分がとった行動とひきくらべる、筋が通らない。
愛に眩んで信義を忘れることを華は欲さなかった。頭の上五寸後方一尺あたりにわだかまっている重さを振りきるように前に出たところで、暗い空に後ろ髪をひかれる心地で華は立ち止まって背後を見た。藍に暮染めて西の果てが橙に明るい空から吹きつける悪い風が髪を巻き上げて去り、裾から入り込む寒気は夜の冷気か、目を丸くした華が首を竦めて改札へ入るその頃、諸共に信号を東へ渡ったフェルミと武藤は片や笑顔片や渋面で和久田の家さして向かっていた。
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