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華は一足先に部室を出て、しばらく居残ると言った二人の出てくるのを、西日の陰になって赤味のさした暗い紺色のたれこめる正門で待っていた。正確には昇降口のひさしの下で待っていた。待っているのは同学年の和久田とフェルミで、四月から同じドイツ部の部員として活動し始めてもうふた月が経とうとしている。二人はとても仲がいい。家が隣合わせだそうで、フェルミが越してきた二月から近所付き合いで幾度となく顔を合わせていて、そのありさまは今も続いている……
彼女は中学まで和久田とは別の学区に通っていた。だから中学の彼については何一つ知らなかった。どんな中学生だったのだろう。和久田は中学時代のことを好きこのんで話してまわる性格ではなかったから、華はもちろんのこと他の部員も彼がどんな人物だったのかはよく知らない。もっと彼について知りたいと思う。けれども華が和久田と知り合ったのは五月のゴールデンウィークが明けて部活動が本格的に始まってからのことで、部活動以外で顔をつきあわせて話をする機会を持つことはできないでいる。
中途半端な時間だった。門を通るものは誰もいない。一人で昇降口のひさしの下の鉄扉によりかかって二人の足音と話し声を待っていると、代わって一人分の足音が遠くから聞こえてきた。
覗き込むとそこには幽霊のように白い顔の影が見えた。これもやはり同じ部の女子で武藤陽子といった。肌は雪のようにまっ白で、黒い髪をおかっぱにしている。目が細く、正面を向いて話していても瞳はそれほど見えない。けれど眼力の鋭さは格別で、眉間に皴を寄せた彼女が見るとき、華は射られた人の心を重くする矢のような暗い光を感じた。
見るともなく見回してからゆっくり靴を履き、すのこを降りる。華は手を振って見せ、一言だけ挨拶をする。
「ばいばい」
声でようやく立っているのが知り合いだとわかったらしく、武藤は黙って軽く頭を下げる。それだけで、これもいつものこと。このとき華は昇降口の敷居をまたぐ姿勢でいたので、当然その前を通ることになるのだが、その前を通る経路で武藤がそのまま歩いていくところで、
「武藤ちゃん」
と、形だけ親密なふうに呼びとめる。二人の目がまっすぐ合う。武藤の足が止まる。
「和久田君とフェルミちゃんもすぐ来るし、一緒にカラオケ行かない?」
眉にかかるかかからないかの髪の簾の奥で、ほそい眉が動くか動かないかする。手で招くようなしぐさをしてみると、少しのけぞるようにしてかかとをずらして後ずさるがそれきりで、のけぞるのもやめた武藤はじっと動きを止めた。厚みも血色も欠いた、ありやなしやもわからない唇がぴったりと閉じられている。
不思議なことに彼女はたしか四月の中頃か終わり頃まで、何の因縁もないはずのフェルミをかなり強力に敵対視しながら和久田に接近していて、それが四月一杯で収まった。このあたりつっこんだ事情を知っていそうな人物は中学来の和久田の知己らしいが、一度見たことのある見上げるほどの長身の彼は武藤のいっときの暴走について口を鎖している。しかし四月の二十日を過ぎたある昼休み、横恋慕かと面白半分に囃し立てるクラスメイトに、毅然と、それでいてその場からすれば滑稽な生真面目さで否定したという事実は、彼女の
だから一つには、ひどく思い詰めがちなのだ。彼女とももっとお話ができたらと思うけれど、それもやはりできないでいた。それも今までのことで、和久田とフェルミとを追って華と同じ部に入ることとなったというだけの縁であったとしてもこうして話しかけることができた以上は、これから親交を深めていくことも不可能ではない……
華が待っていた二人が遅れて現れ、武藤は四人して新城駅へ向かうことに同意した。
いっとうおしゃべりなフェルミが昨日今日の校内で起きた小さな事件から夏服や今年の秋の流行、そしていまなお町を騒がせる集団「パルタイ」の動きにかかわる真偽のほどのあやしげな情報にいたるまでしゃべりまくる。それにほとんど組み合うようにして話すのが華で、和久田はときおり相槌を打ち、武藤は一言もしゃべらず華のすぐ後ろにくっついている。
華もよくしゃべるがフェルミはもっとしゃべった。四人で並ぶと体の大きいのは和久田ではなくフェルミで、華はその厚くひときわ大きい体に機関銃陣地で火を噴く鉄の塊をそれとなしに連想した。彼女に比べると武藤も華も骨格からして細い。
四人は駅前のカラオケさして歩く。二人が自転車を押している。武藤は高校のすぐ近くの住宅街住まいで、和久田とフェルミは自転車通学をしており、華はバスで通っていた。高校から駅前まで複数車線の大きな街道が通っており、そこから枝分かれして大小いくつもの道が用水路へ路地へ通じている。街道を横切る横断歩道を前にして先を歩いていた和久田がふと立ちどまったとき、彼は車一台ほどの幅の路地に立つ、背が低く色白のヨーロッパ人が、誰かドレスを着た人影を背負っているのを凝然と見つめていた。
先頭が止まるのでフェルミも華も止まる。二人して、多分後ろにいて華から見えない武藤も、和久田と同じほうを見る。人を背負って路地の真ん中に仁王立ちの赤茶けた髪の男の目はゴールデンレトリバーを思わせる悲しげな、何か乞うているようなふうでこちらを見ている。
「誰? 知り合い?」
おそるおそる聞くが、和久田は答えない。ただ眉を寄せて、豪然というのか、慄然というのか、すぐ隣の人影などまるで意に介さないように視線はあの男に集中している。
「フェルミちゃん、知ってる?」
「いやア……」
別に北国の出身だからといって同郷の人間全員の顔と名前を把握しているわけではない。
男の肌に赤味がさしているのは肌の色の薄さで血色が透けているからだ。反対車線の向こうで見やっている男をにらみつけていた和久田は、やがて小さく、そうと意識しないほどによわい溜息をはいて、
「ごめん」
と言うきり青になっている横断歩道に向かっていく。
「どこ行くの?」
「用事があるのをすっかり忘れてた! 女子会ってことでさ、楽しんできなよ、三人で!」
信号がチカチカ点滅している。和久田は足早に四車線を跨いで行ってしまう。
用事って何の用事さ、とは聞けなかった。
カラオケに行く。
一巡し、二巡目まで回したところで、華はマイクを置いて二人に向き直った。
「フェルミちゃん、武藤ちゃん」
「はい?」
返事をしたのはフェルミだけだ。獅子のように背中を丸くたわめてにこにこしながら華を見てなお笑う。武藤も華の変化を感じてぴたりと合わせていた膝を華へと向けた。
「何です?」
「これは包み隠さないで話してほしいんだけど」
そうやって話している顔が熱くなっているのがわかる。いざ切り出すと恥ずかしい。和久田が急にいなくなってしまったのは残念としても、彼との親睦を深める以外にしたいこと、すべきこともあるだろう。華自身他の二人のことを知りたいように、私自身も自分のことを二人に知ってもらうことだってあっていいはずだ。彼の目の前ではできないこともある。そう、たとえば……
「私は和久田君のことが好きなんだけど、二人はどう思ってるのかな?」
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