pétale.02 ライラックの花が歌う、リラの町
春の風に吹かれたレースのカーテンが緩やかに波打っていた。
部屋には西に傾いた陽の光が注がれている。火の入っていない暖炉も、窓際に置かれている白いベッドも、ベッド脇にあるテーブルも夕日を浴びて淡いオレンジ色に染まっている。
リゼットはベッドの上で寝ている金髪の少年の額に濡れたタオルを置いてやった。
すると、タオルの冷たさに気付いたのか、少年は一回強く目をつむった後、うっすらと瞳を開いた。
「……ん。ここ、は……?」
彼は起き抜けのぼんやりとした表情のまま、辺りを見渡した。体を起こし、近くにあるリゼットの顔を見た後、ふにゃりと子供みたいに笑う。
「おはよーございますー……」
「ん、おはよ」
そう挨拶を返す。
すると、少年は急にぱちっと目を見開いた。あたふたと慌て始める。
「あ、あれ! 僕、一体! ここは!? っていうか、なんで僕ベッドで寝て!?」
少年は両手をばたばたと動かしながら目を白黒させた。金髪が動きに合わせて揺れる。丸くなったりぐるぐるとまわったり、せわしなく動き回る瞳が面白い。
リゼットはくすりと笑みを漏らした。
「あなた川辺で倒れていたのよ。だから、ここまで連れてきたってわけ」
「そ、そうだったんですか……。すいません、なんだかご迷惑をおかけしたみたいで」
「いいのよ。私はリゼット。みんなからはリズと呼ばれているわ。あなたは?」
「僕はモモっていいます」
「モモ? 不思議な名前ね」
「極東の魔境で
リゼットはその質問にすぐに答えることをしなかった。
代わりに、レースのカーテンを大きく開き、窓の外の景色を見せるようにして、どこか得意げに胸を張る。
「ここはリラの町よ」
窓からは町を一望することが出来た。
町の中でも比較的高い位置にあるリゼットの家からは、切り取った石で造られた、おもちゃ箱のようにも見える可愛らしい家々が見渡す限り広がっている。
正面に見える石畳の大通りは並木道になっていた。小花をこんもりと集めたような薄紫色のライラックの花が奥にある広場までずっと続いている。筒状の小さな花が円錐形に集まったような華やかな花は今まさに盛りを迎えようとしていた。
モモはその景色を、ほぅ、と感嘆の息をつきながら眺めている。
「……で、リラの町って、どこなんですか?」
がくっと、予想外の言葉にリゼットは肩透かしを食らって床に転んだ。
ベッドの縁にしがみつくような体勢で、当惑したように聞き返す。
「あ、あなた知らないの? リラの町よ? ドリュース山脈のふもとにある、豊かな水と美しいライラックの花に囲まれた町。そりゃ、七大国家には及ばないものの、人口だってそこそこあるし、それに、そう! 〈ライラックの花道〉って聞けばわかるでしょう? ね? ね?」
しかし、それを聞いてもモモはピンとこないようだった。ぼけっと不思議そうな顔をしたまま小首をかしげている。
その反応を見たリゼットはショックのあまり言葉が出てこなかった。それなりに有名な町だと思っていただけに衝撃も大きい。
もしかして、この少年、美しい花が咲く喜びを祝う
そう思い、彼女は軽い自失から立ち直ると、ごほん、と、わざとらしく咳払いをした。
きりっとした顔で仕切り直す。
「いい? 〈ライラックの花道〉っていうのはね、オスティナート大陸の三大花宴である〈ミモザの花調べ〉、〈
それを聞いたモモが感嘆したように口を半開きにする。
「す、すごい……」
リゼットは満足げにうなずいた。
が、モモは自信がないような、よくわからないような様子で首をひねった。
「……んですよね? 多分。リゼットさんの言い方から察するに。僕は、よくわからないですけど。――ってちょっと、なんで泣いてるんですかぁぁぁぁぁっ!?」
「もういい……もういいわよぉ……」
しくしくと涙しながらリゼットは床に手をついていた。謎の敗北感が込み上がってくる。
だが、それもほんの少しの間のこと。彼女はすぐに立ち直ると、今度は文句を述べる。
「もう、ちょっと、リラの町を知らないなんて、あなたどれだけ田舎人なのよ……」
「すみません。僕、外のことにはあまり詳しくなくて」
「っていうか、川で行き倒れてるから思わず連れてきちゃったけど、あなたどこの人なの? どこから来たの?」
「僕はあちこちを旅している旅人です」
「ふぅん」
さらっと聞き流すと、モモは意外そうに軽く目を見張った。声は心なしか残念そうである。
「あれっ? 反応それだけですか?」
「それだけって、どんな反応すればいいのよ」
他に言うべきことが見当たらず、そう返す。
すると、当惑するのはモモの番だった。何やら一生懸命まくしたててくる。
「ほ、ほら、旅人なら、どんなところを旅してきたんですかー、とか、旅人なんて嘘でしょうー、とかそういう反応がてっきり来ると思ってたんですけど。今じゃ、旅人ってその程度の扱いなんでしょうか……」
しょんぼりと頭を垂れさせるモモ。まるで捨てられた子犬か何かのようだ。
なんだか悪いことをしてしまったような気がして、リゼットは眉を下げる。
「どういう反応よ。ただ、あなたが嘘をつくような人には見えなかったし、別に私としては、旅人でも家出人でも行き倒れでもなんでもいいかなって。あ、犯罪はだめよ? 賞金首とか指名手配とかそういう犯罪者だったら即刻、治安委員会に突き出しますからね」
「なんか、適当ですね……」
感心しているのか呆れているのかよくわからない中途半端な顔で言った後、モモは何かを探すように辺りを見渡した。
「あの、すみません。小瓶は……」
「それなら、そこにあるわ」
リゼットはモモが寝ているベッド脇にある小さなテーブルを指さして見せた。そこには、菱形の小さな小瓶が置かれている。
ぱあっと、モモは子供のように顔を輝かせると、小瓶を手に取って嬉しそうに眺めた。
「良かった。これが無事で……」
モモはとても大切な宝物を見るような眼差しで小瓶を見つめている。
「さっきも聞いたけれど、あなたもしかして、その小瓶のために川に飛び込んだの?」
「え。あ。……はい」
悪さをとがめられた子供のようにモモは肩を跳ね上がらせた。
「危ないじゃないのよ。まったく……。そんなに大事なものなら、次からは川に落とさないよう気をつけなさいよ」
「はは、そうですね。気をつけます」
「ねえ、その小瓶って何なの? 形見の品とか?」
「いいえ」
首を振ってからモモは、何かを期待するような、どこか試すような目で、じっとリゼットの瞳の奥を見つめた後、こう言ってきた。
「――この小瓶は、瓶が水で満たされた時、その人の願いを叶えてくれるんです」
「……はい?」
今度はリゼットが首を傾げる番だった。
モモは静かに微笑んでいる。透き通った湖水のように澄んだ瞳は、旅人と名乗った時と同じで、嘘を言っているようには見えない。
こちらの真意を見定めるような、心の奥を見透かすような真っ直ぐな瞳に見つめられ、なんとなく居心地が悪い。そんなモモの視線から逃れるように目をそらした後、リゼットはおよそ信じられないような口調で。
「願いを叶えるなんて〈カドゥケウスの四宝〉じゃあるまいし。そんな、お伽噺みたいな話、急に言われても……」
困ったようにリゼットは言いよどむ。
そんなリゼットを見ていたモモだが、不意にふっと穏やかな顔で笑った。
「そうですよね。そんなの、急に言われても困りますよね。すみません」
「それより、あなた体の方は大丈夫なの? ノワ爺様は大きな外傷もないし大丈夫だろうって言ってたけど、どこか痛むところとかはない?」
「心配をかけてしまってすみません。体の方は問題ありません。別に痛むようなところもありませんし。僕、こう見えて頑丈にできてるんですよ」
「頑丈とかそういう問題じゃない気がするんだけど……。運が良かったのかしら。でも、念のため、しばらくは安静にしてなさいよ? この部屋、貸してあげるから今日は泊まっていってちょうだい。もう日も暮れるし」
窓から見える太陽は西の地平に沈み、空には宵闇が迫りつつある。
石畳で覆われた大通りは茜色から濃紺へと変わろうとしていた。東の空には水に浮いたような星が出始めている。
「いいんですか? それじゃあ、ご家族の方にご挨拶をしたいと思うんですが。ご両親はどちらに?」
「いらないわ。というか、いないし」
「いない……?」
聞き返してくるモモ。リゼットは何を思うでもなく、ごく普通の声で説明する。
「二年前に亡くなったのよ」
「す、すみません」
叱られた子供のようにモモが肩身を狭くする。その様子にリゼットは苦笑した。
「なんで謝るのよ。あなたのせいじゃないでしょ。まあ、とにかく気兼ねしないでちょうだい」
軽く笑って、枕元に置いてある衣服を指さす。
「あなたの服は洗って乾かしておいたわ。今、食事持って来るから、着替えててちょうだい」
そう言い残してから、ぱたんと扉を閉じ、部屋を出る。
「願い事、ねぇ……」
ぽつりとリゼットはそう漏らした。
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