モモと不思議な魔法の小瓶

久遠悠

pétale.01 巡る季節。あるいは桃の花咲く春の小川で

 春の山だった。

 山の斜面に一本の幅が広い道が走っている。

 片方は山頂めがけて、みずみずしい葉をつけた木と草がまばらに生えていた。

 もう片方は深い谷底へ続く切り立った崖になっていて、崖の下には、深い谷と、ごうごうと音を立てて流れる川があった。川はうねりながら谷の奥へ奥へと続いている。


「返して! 返してください――っ!」


 水の流れる音に混じって、声が響く。まだ幼さが残る年若い声だ。

 山の道の途中で、地面に顔を押さえつけられているのは、金髪の少年だった。

 旅人なのだろう。彼の周囲にはテントの骨組みや折り畳み式の調理台といった旅荷物が散らばっている。

 少年の前で仁王立ちしているのは人相の悪い大柄な男だった。


「それは大切なものなんです! お願いですから返してください――」


 谷を背にしている男の手には宝飾品のように美しい小瓶が握られている。それを取り返そうと、少年は必死に叫んでいる。

 だが、男は耳の裏側に手を当てながら、わざとらしく聞き返しただけだった。


「はぁ? よく聞こえねぇなぁ。こいつがなんだってぇ?」

「それは、僕にとって本当に大切なものなんです。お願いしますから……返してください」


 泥が口の中に入るのにも関わらず、彼は押さえつけられたまま痛切に訴える。

 すると、その訴えが届いたのか、はたまた気まぐれか、男がにやにやとした笑いを引っ込めた。男は、ふと思いついたように真剣な面持ちになると、神妙そうにうなずく。


「そうか……本当に、こいつが大事なもんなのか」

「え。まさか返してやるつもりですかい?」


 うろたえたのは少年の背中に乗っていた小柄な男だった。傍には、やせ細って貧相な体つきの男が立っている。


「ああ。そのつもり、じゃなくて返すんだ。ほら、お前ら、そいつを解放しろ」


 しっしっ、と邪魔な虫を追い払うような仕草で、男は彼を押さえつけていた仲間の男二人を散らしにかかる。

 少年は救いを見たように顔を輝かせた。泥まみれになりながら、身体を起こす。


「あ……ありがとうございます……」

「ほらよ、返してやるから、ちゃんと受け取りな。ほーれ」


 そう言って男は小瓶を背後の崖に向かって放り投げた。男の手から離れた小瓶は、緩やかな弧を描きながら、崖下へと落下していく。


「あ……」


 その一部始終を見ていた少年の口から、絶望的な声が落ちた。たった一つの淡い望みが費えたような、それ。

 男は腹を抱えて盛大に笑い出した。


「ぎゃはははははっ、わりぃ悪ぃ。うっかり手が滑っちまった」

「うっかりって、あれがかよ。ひでぇ奴だなあ」

「けど、受け取れなかったお前も悪いんだぜ。おれは言ったはずだぜ、ちゃんと、受け取りなって――なっ!?」


 男は驚いた。というのは、少年が疾風のような素早さで飛び出たからだ。

 少年はあっという間に男の脇を通り過ぎると、小瓶が落ちた崖へ、すなわち川の流れる谷底に飛び込んだ。

 信じられない行動に出た少年の姿を追うように男たちが崖付近に集合する。

 彼らは少年の姿を探して崖下をのぞき込んだ。

 切り立つような崖の先、広々とした谷の間を流れる川が、はるか遠方に見える。

 少年は崖の途中に生えている木々に何度かぶつかりながら崖下へと落ちていった。少年の姿は、見る見る遠ざかり、やがて見えなくなった。

 遅れて、水に大きな荷物が落ちたような音と共に川に水しぶきが上がる。少年が川に落ちたのだろう。


「……けっ、ざまぁねぇ」


 男の一人が悪態をつきながら崖に背を向けた。それを見た残りの二人も、ぞろぞろと続くように崖から離れていく。


「あーあー、あいつ死んじまったかな?」

「さてな。そんな高くねぇとはいえ、頭の打ち所次第ではただじゃあ済まねぇだろうな」

「兄貴も素直に返してやりゃ良かったのに」

「あーゆー、眉唾モンには反吐が出るんだ」

「けど、本当だったら、もったいなかったんじゃね?」

「馬鹿かお前。んな都合いいもん、そう簡単にあるわけねぇだろ」


 そう言って兄貴と呼ばれた男はけっと吐き捨てた。


「――願いを一つ叶えてくれる、なんて一世紀も前にすたれたような夢物語は」







 谷の間を流れる川の水が、澄んだ音を奏でながら下流に流れていく。

 谷と同じく豪快に広い川は、白く狭い砂浜に挟まれていた。その左右には緑鮮やかな丘が幾重にも連なっている。

 新緑の絨毯にも見える丘陵は、見渡す限りの大地に緑のうねりを作っていた。

 きれいに晴れた空には、真綿のような白い雲がいくつか浮かぶばかり。緑の丘を緩やかに吹き抜ける風はどこまでも爽やかだった。


「んー、今日もいい天気ってね」


 弾んだ声を上げたのは、川沿いを歩いていた一人の少女だった。

 赤い髪を半分だけ後ろで束ねた少女である。その腕には、枕ほどの大きさをしたラタンのカゴがかけられている。


「カルタベリーの実もたくさんとれたし、大漁大漁っと」


 そう言って彼女――リゼットは山の上を見上げた。山の峰々にはところどころ雪がまだ残っている。

 その時だった。川の上で、きらりと何かが光るのが見えたのは。


「ん? 何かしら」


 もしかして、金貨や宝の類だろうか。

 実に単純で現金な発想が浮かぶと同時、彼女はカゴを脇に置いていた。長い深紅のスカートを腰のあたりに縛り付け、革靴を脱いで後ろ手に放り投げる。それから、さぶざぶと冷たい水をかき分けながら、光り輝くそれめがけて川を進んでいく。

 川の上流から流れてきたのは小さな小瓶だった。金の鎖と装飾が施されたそれをリゼットは川から拾い上げ、手の平にのせた。小瓶の中に水はほとんど入っていない。


「……瓶? なんでこんなものが」


 そう言いながら周囲を見渡したところで、彼女は自分のいる場所より上流の川べりに金色をした何かが――人らしきものが流れ着いているのを発見する。


「嘘! やだ!」


 慌てて小瓶をポケットに押し込み、川から上がる。手早く靴を履いて、彼女はその人物の下へと急いだ。

 川の岸辺に流れ着いていたのは、リゼットと似たような年ごろの少年だった。

 金色の髪は陽光を浴びて水面と同じようにきらきらと輝いている。目こそ閉じているが、整った顔の造形は、まるで精巧に作られた人形かなにかのようだ。


「ちょ、ちょっとあなた、大丈夫?」


 肩を揺さぶりながら呼びかける。

 見たところ、少年に大きな怪我のようなものはなく、血も流れていない。

 リゼットは少年の身体を川から引きずり出した。衣服が水を吸い込んで重くなっているせいか、見た目に反して重い。

 少年を岸辺まで運んだところでリゼットは一息ついた。息を整え、改めて自分が引きずりあげた少年を見つめる。

 黒い脚衣パンツと濃茶のブーツ。深緑にも見えるくすんだオリーブ色のマントはうすら汚れている。


「ちょっと、お兄さん? 生きてますか?」


 ぺちぺちと頬を叩いた後、リゼットは少年の胸に耳を当てた。しかし、川の音に邪魔されて心臓の音がよくわからない。

 ならば、とリゼットはその手を少年の口元に伸ばした。息を確かめようとして。

 そこで、ぱちっと。


「へ?」


 急に少年の目が見開かれる。湖水のように澄んだ水色の瞳。

 瞬間、驚いたリゼットは、反射的に手を引っ込めた。

 少年は目を開くなり、すぐさま飛び起きた。彼はリゼットを見ると、いきなり顔を近づけて迫ってくる。


「小瓶は! 僕の小瓶はどこですか!」

「え、え、え? 小瓶?」


 勢いに戸惑いつつも、リゼットは先ほど拾った小瓶のことを思い出した。ポケットから出して見せてやる。


「もしかして、これのこと?」


 すると、少年は安堵したようにへなへなと肩を脱力させた。


「良かったあぁぁ……」


 その様子を眺めた後、リゼットは手のひらの小瓶を見つめ直した。


「なんだ、これ。あなたのものだったのね。っていうか、まさかとは思うけど、これのために川に飛び込んだんじゃないわよね?」


 お説教でも始めそうな口調でリゼットは問いかけた。だが、答えはない。

 リゼットは小瓶から顔を上げ、ぎょっとして声を上げていた。


「ちょ、ちょっと! あなた大丈夫? しっかりして!」


 見れば、少年は再び仰向けに倒れて目を閉じて意識を失っていた。

 リゼットはやや乱暴に少年の身体をゆする。しかし、少年はぴくりともしない。


「っていうか、起きなさいよ! ここ、町からどんだけ離れてると思ってんのよーっ!?」


 彼女の叫び声は、遠い山々まで届くように響き渡った。

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