pétale.03 澄んだ水が響く小瓶に捧げる祈り

 翌朝。

 柔らかい粉のように白っぽい朝の日差しが入り込んだ一階の調理場。

 そこにやって来たリゼットは四角い流し台の前に立っていた。その手にはモモが大切にしている小瓶が握られている。

 調理場は静寂に包まれていた。レンガで覆われたパンを焼くための大きな石釜に火は入っていない。中央に置かれた調理台の上にも何も乗っていなかった。

 リゼットは流し台をちらりと見た。

 流し台の中には、水が張られた金たらいが置いてある。

 気にしたようにリゼットは周囲を確認する。今のところ、モモがやって来る気配はない。

 胸のあたりに罪悪感でつきりとした痛みが走る。だが、リゼットは首を振って迷いのようなそれを追い払った。やや緊張した面持ちで小瓶のふたを回す。

 が、接着剤で固められているのかのように、小瓶はびくともしない。

 何度か試した後、リゼットは諦めた。文句でも言うようにふてくされる。


「もう、何なのよ。この小瓶、ちっとも開かないじゃない」

「あ、それ、普通の方法じゃ開きませんよ」

「きゃーっ!?」


 いきなり音もなく背後からぬっと現れたモモ。

 驚いたリゼットは悲鳴を上げながら小瓶を宙に放り投げた。薄いガラスで出来た小瓶がガチャンと派手な音を立てて石の床に落ちる。

 響いた音の大きさに、リゼットはぞっと血の気を引かせた。恐ろしさのあまり、とっさに口を突いて出たのは謝罪。


「あ……、ご、ごめんなさい! 私、そんなつもりじゃ――」

「大丈夫ですよ」


 あっさりと言ってモモは落ちた小瓶を拾い上げた。


「ほら、この通り」


 リゼットの方に差し出された小瓶にはひび一つ、傷一つも入っていない。全くの無傷だった。


「これ、どんなことしても割れないんですよ。不思議ですよねー」

「ど、どうして……」


 モモは、のほほんと笑った後、桶にはられている水を見てきょとんと声を上げた。


「あ、もしかして蓋を開けて水をいれようとしたんですか?」


 ぎくり、とリゼットは肩を跳ね上がらせた。同時、思わず白状していた。


「ち、違っ……わない、けど……。ちょっと、試してみたかったのよ!」

「無理ですよ」


 さらりとモモは真顔で言った。


「例え蓋を開けられたとしても、普通の方法じゃこの小瓶に水を入れることはできません」


 モモはリゼットの行動を責めるつもりはまるでないらしい。気にした風もなく説明してくる。

 その様子にリゼットの方にも徐々に落ち着きが戻ってくる。


「……普通の方法って、それじゃあ、どうしたらいいのよ」

「その質問に答える前に、僕からも聞いていいですか?」

「いいわよ」

「リゼットさんは、この小瓶の水を一杯にして、どんな願い事を叶えたかったんですか?」


 なぜか真面目な顔で聞いてくるモモに、リゼットは誤魔化すようにそっぽを向いた。


「……別に、なんだっていいじゃない。それより、どうやったら小瓶に水がたまるのよ」

「リゼットさんが僕の質問に答えてくれたら、僕も答えます」


 かちん、とリゼットの額に怒りの四つ角が浮かぶ。

 モモの澄んだ水色の瞳は真剣そのものだが、台詞は挑発されているとしか思えない。こいつ実は性格悪いんじゃないのか。


「それは……」


 リゼットが言いかけたところで、玄関の方から頑丈な木の扉をこんこんとノックする音が聞こえた。


「ごめん、ちょっと行ってくるわね」


 そう言ってリゼットは調理場と隣接しているパン売り場に向かった。

 パン売り場は調理場と同様に静まり返っていた。

 普段なら大通りに面したガラス張り沿いに置かれている棚に焼きたてのパンが並んでいるのだが、今日は休日のため何も置かれていない。

 扉の外から聞こえてきたのは幼い兄妹の声だった。


「リズねーちゃーん」

「リズお姉ちゃん」

「あ。ユミト、フィリア。おはよう」


 扉を開くと、そこにはリゼットの腰当たりまでの背丈しかない、十歳ぐらいの子供二人が立っている。


「おはようリズねーちゃん」

「今日はパン残ってる?」


 濃茶の髪を二つに結び、緑色のスカート姿の女の子――フィリアがあいさつしてくる。

 それに続くような形で、聞いてきたのはフィリアの兄であるユミトだ。こちらは濃茶の短髪に短めの脚衣パンツを履いている。


「ちょっと待ってね」


 そう言い残して、リゼットは調理場へと戻った。いまだに流し台の前に立っているモモの脇を通り過ぎると釜戸の隣に置いてあった紙袋を拾い上げ、急いで入口に戻ろうとする。


「ねーちゃーんっ!」


 そこへ、焦燥めいたユミトの声。

 リゼットが店の売り場に戻るよりも早く、ばたばたと足音を鳴らしながら二人が調理場にやって来た。二人はリゼットの腰にしがみつく。


「ちょっと、どうしたのよ、二人とも。待っててって言ったじゃない」


 そう言いながらリゼットは二人を腰に引っ付けたまま店の売り場に戻る。

 その時だった。


「おいおい、今日は人がいねぇじゃねぇか。ついに店じまいかぁ?」


 開きっぱなしの扉から、頑丈な武具を連想させる屈強な大男と、ごぼうのようにひょろひょろしたやせっぽちの男が店に入ってくる。

 リゼットは男たちを見るなり不機嫌そうに眉を吊り上げた。しかし、優雅に笑って見せる。


「あら、おはよう。今日は見ての通りお休みよ。パンを買いたいなら明日出直してきてくれるかしら」


 大男の方が、にたにたと笑いながらリゼットに詰め寄る。


「おうおうリゼットさんよぉ。店休なんて、そんなのんきにしてていいのかよう。そんなことしてっと、あっという間に期日がやってきちまうぜ」


 ごぼう男――もとい、貧弱そうなやせっぽちの男が不健康そうな顔で説得してくる。


「考えてみろや、リゼットさん。別に町長はあんたを野垂れ死にさせようっていうわけじゃねぇんだぜ。正規の値段を大きく上回る価格で、この土地を買い取ろうって言うんだ。いい話だと思わねぇか?」

「例えそうだとしても、町長に雇われただけのあんたたちには関係ないでしょう」


 きっぱりと突っぱね、リゼットは一歩前に足を踏み出した。


「わかったら、店からとっとと出て行ってちょうだい。ついでに、町長に町の品位が下がるから、こういう借金の取り立てみたいな真似はやめてちょうだいって伝えておいて」


 それを聞いた大男がいらついたように眉を吊り上げた。


「あんたもさ、いい加減わかったらどうだ? こーんな陰気な店、潰しちまった方がよほど町のためってことを」

「勝手なことを言うな!」


 そう叫んだのは、リゼットの後ろにいた子供――ユミトだった。

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