第4話 地の果てにて、彼女は死を語る

 田舎に帰る、と突然彼女が言って、彼女がその通りにしたのが一週間前。

 そして今日。

「旅行に行こう」

 一週間ぶりに会って開口一番、彼女はそう言い放ったのだった。

「へ?」

 私としては、当然、困惑せざるを得ない。前々からつかみ所の無い性格だとは思っていたけれど、それに強引さが付随するのは付き合ってしばらくしてからわかった。

「いつから?」

「今から」

「はぁ⁉」

 私が驚いて口をあんぐり開くと、彼女は小首を傾げる。

「……なんかおかしい?」

「……いや、さすがに今日から、どころか今からは」

 私にだって色々とある。バイトとか課題とか。……まあ、バイトはしばらくシフトを空けられているんだけど。……あのイタ飯屋、そろそろヤバいのかなあ。

「大丈夫。すぐに用意したらいける」

「私、キャリーケースとか持ってないんだけど」

「大丈夫、私が買っておくから」

「……いやいや」

「ってわけで、あとで家に持って行くね」

「……いやいやいや」

 彼女の強行っぷりに私は困惑しつつも、物事は彼女の思うままに進んでいく。

 気がつけば私は家で旅行の用意をしており、少ししてから彼女が新品のキャリーケースを持って家のインターホンを押しに来たのであった。


                 ○


 私と彼女は特急列車に乗って、北へ。どうやら北陸地方に向かっているらしかった。

 目的地の最寄り駅に到着する。駅前は見事に寂れていた。人通りが少なく、やけに風通しが良い気すらする。

 昭和の時代に建てられたであろう古びたビルが、一層の哀愁を放っていた。

 彼女が手配してくれた宿に行き、チェックインして荷物を置く。昭和ノスタルジーが濃厚に漂う宿だった。コインを入れて動かすタイプのマッサージチェアとかあったし。

 その後、二人してバスに乗り込む。私は窓際、彼女は通路側に座った。

 平日の昼間なだけあって、バスに乗る人の姿は私たち以外にほとんどいない。

 バスは国道を走る。商店の数よりも民家の方が多い通りを抜けると、田畑ばかりの景色に変わり、その後海沿いへ。

 秋の日本海は穏やかに凪いでいた。日光を煌めかせる海面を目に焼き付けつつ、隣にいる彼女を見る。

 目が合った。

「……どうしたの?」

 思わず尋ねてしまう。

「いや、あなたがいるなって」

 彼女は何気なくそう言った。

「……そりゃあいるでしょうよ」

 彼女には独特の世界観があり、私のような凡人にはたびたび理解できないことがある。

 彼女はそれを理解しているのだろうが、改める気はなさそうだし、こちらとしても別に改める必要はないと思う。というか、改められると困る。

 彼女は天真爛漫でつかみ所がないからこその、その美しさを帯びるのだろう。だから、私によってその美しさが変容するのは、私の望むところではないのだ。

「少し、安心する」

「……そ、そう」

 彼女が発した、どこか甘えるような言葉に私はどぎまぎしつつ、誤魔化すように彼女から顔を逸らし、窓に向ける。上の空で眺める景色は、ただ流れていくばかりだ。

 そのとき、右の肩に熱と重み。見ると、彼女が目を閉じてもたれかかっていた。

「眠いから、少し、寝るね」

 彼女はそうぽつりと呟き、あとは口を閉ざす。私はどうすることもできないので、彼女の寝心地を少しでも悪くしないよう、注意を払うのだった。


                 ○


 バスが終点に、目的地に到着する。

 そこは岬だった。

 陸の果て、断崖。眼下に広がる海。

「……またなんでこんなところに」

 今回の旅行は彼女が計画したものだ。彼女のセンスは一種独特で、そこに私の理解が入らない余地は多々ある。

「んー、ちょっとね」

 私の疑問とも抗議とも付かない発言を、彼女ははぐらかして返す。

 平日とだけあって、岬には人の姿は少ない。自殺防止の看板と公衆電話がクールだな、という感想を抱く私である。

 秋の日本海は、冷えた風が吹き込んでくる。このままもう一、二ヶ月ぐらいすれば、この風に雪の粒が混じるのだろうか。

 ここがどのような場所か、彼女は知っているのだろうかという疑問を抱く。

 いや、知っているに違いない。だからこそ、彼女の独特な感性は、彼女と私をここに導いた。

 ここは、要するにそういう場所だった。自殺の名所として有名な場所だ。

 今は昼だからそんな人はいないだろうが、夜にこんな場所へ向かおうとする人間は、たいていそういう人たちなのだろう。

 そんな場所に、どうしてわざわざ?

 ――もしや、彼女はそういった欲求を持っているのだろうか。

 それを尋ねる勇気は、私にはない。それに、今のところ彼女はそういう素振りを見せていないので、その線は薄そうだろうか。

 ……もっとも、個人が他人に見せている部分なんて、ほんの表面的なものに過ぎないのだろうけれど。

 ここに来るまでにすれ違った、無数の見知らぬ人たちを思い出す。

 彼ら一人一人の内面に、闇を抱えているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 まあ、どうでもいいけど。彼女以外は。

「ここに来たかったの」

 彼女が澄んだ声で言う。私はそれに耳を傾ける。

「ここが一番近くて、見たい景色に近かった」

「……一番近い、って何のカテゴリーで?」

「自殺の名所」

「……おう」

 自殺。普通の人が忌避するであろう二文字。彼女はそれをさらりと言い放つ。

「……なんでまた、自殺の名所なんかに」

「ここで沢山の人が、自分で自分の命を落とした。……ここには、終わりが漂っている」

「それが、理由?」

 私がそういうと、彼女は首を横に振る。

「……いいえ、これを理由にするのは、ちょっと違う。……私はきっと」

 彼女は海の方を見て、言葉を紡ぐ。

「死を考えたかったんだと思う」

 彼女は岬の端へと歩く。

「ちょ、ちょっと!」

 私が慌ててそう叫ぶと、崖から一メートルもないような場所で彼女は立ち止まり、振り返る。

「……実家というか、田舎に帰ったの」

 風が吹けば落下するかもしれない場所で、彼女はそんなことを口走る。私は全身の血が冷えるような戦慄を覚えつつ、「戻りなさい!」と叫ぶも、彼女は私の言葉を無視して話を続ける。

「……私の祖母がだっていうことで」

「…………それ、そこでしなきゃ駄目な話なの?」

 私の問いに、彼女は優雅な微笑みをたたえて首肯する。

「ええ。だって、私がしたいんだもの」

 答えになっていない答えだった。しかし、彼女はそんなことを意にも介さず話を進める。

「祖母は美しい人だった。私の幼い頃もそうだったし、大昔に撮ったであろう写真で見た姿も。凜とした美しさと、成熟した柔らかい人間性を持った人だった。けど、老いてしまったのね」

「……そう」

 私は彼女の話を聞くことしかできない。

 彼女の髪が風になびいている。風よ、その髪を引っ張ってくれるなよ、と心で祈る。

「祖母は痴呆になって、ありとあらゆることを――私のことも忘れて、その精神も子供返りしたようなものになって、家とは違う場所に預けられて、数年経って、久々に会ったの」

 彼女は諦めたような、そんなどこか悲しげな笑みを浮かべる。

「……人間わ」

 彼女の言葉には、間違いなく含意があった。読み取るまでも無く、彼女が何を言いたいのか察する。

「……いいえ、今もきっと人間なのでしょう。けれど。歯は抜け落ちて口が窪み、まぶたは目を閉じる寸前まで下がり、食事を食べられないということで鼻から管を入れられそこからゼリーを流し込まれ、管を抜かないようにミトンを両手に着けられ、一日中ベッドで寝ている……。そんな祖母の姿を見て、私は、絶句してしまったの」

「……それは」

「絶句してしまったのよ。泣くとか悲しむとか、そんなことじゃなくて、絶句してしまったの。その後、冷酷に分析してしまったの。『私も年老いたらこうなるのか』って」

「…………仕方が無いこと」

「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。……少なくとも、私はそのとき祖母の顔や体に触れるべきだった。肉親の温もりを伝えるべきだった。私が今までそうしてもらったように、今度は私がそうするべきだった」

 彼女はそう言って、俯く。

「でもできなかった。私は怖かった。そこにある思い出の残骸に触れるのが怖かった。病室に漂う排泄物のかすかな香りも、シーツの白さと引けを取らないような祖母の血の気のない顔色も、こうまでなってもまだ生きなければいけない人間というものも。その人間を生かそうとする人間も、この状況を許し看過する世界も……、何もかもが怖かったのよ」

 彼女は落ち着いた口調でそう言う。だが、私には彼女が非常に不安定な存在に思えた。

 そんな彼女が立っている場所は、少し間違えれば死に直結するような場所だ。

「……とりあえず、戻ってきなよ」

「嫌よ。もっと、私は知らなきゃ理解しなきゃ」

「何を?」

「死を、死そのものを。理解して、答えを出さなきゃ」

「……答え」

 嫌な流れだった。

「きっとこの世は緩やかな地獄なの。辛いことを堪え忍んで何か栄光を、あるいは幸せを得たとしても、それは指の隙間からどんどんこぼれ落ちていって、最後には何も残らなくなる。そして、人々を待つのは孤独で苦しい生と、終着点として存在する死。それだけしかないの。……悲しすぎるじゃない?」

 彼女は淡々と語る。

「若くして死ぬか、老いて死ぬか、それを考えないと」

「……そのために、ここに?」

「ええ、ここには死が溢れている。自分で死のうと思った人たちの。……だから私も、ここでそれを考えて、答えを出さないと」

 彼女はそう言い終えたあと、私から海に向き直る。

 ぽつりとたたずむその背中に、『生きているうちに何かがある』なんて言葉は陳腐なように思えた。

「先生は老いて死んだわね、老いたけれど、老いの中では若いうちに死んだ。……けれど、人間の人生全体から見れば、それは老境といっても過言ではない年だったわ」

 彼女が海を見ながらぽつりと言う。

「……そうね」

「…………私は、可能ならば自分が自分であるうちに、自分が綺麗であるうちに死にたい」

 彼女の言葉を、私はしっかり聞き取っていた。それでいて、私はその言葉に何も返せなかった。

 海風が、その言葉を早く運び去ってくれないかと、心の中で祈るように思うことしか、できなかったのだ。


                 ○


 電車の景色に戻る。ボックス席の隣では、彼女が何気なく景色を眺めていた。

 そんな彼女を見つつ、これは走馬燈のようなものなのだろうか、と考えを巡らせる。

 まあ、それはさておき。

 思うにあの旅行の日から、彼女の中に流れる死についての考えを、私は強く知ったのだと思う。

 にも関わらず、それに向き合わなかったから、あのような終わりになってしまった。

 どこかで違う選択をしていれば、あのようなことにはならなかったのだろうか。

 隣にいる彼女を見る。

 私は何かを尋ねるべきだった。しかし、言葉が出てこない。

 たとえば私が『死にたい?』と彼女に問えば、彼女は笑みを浮かべて『うん』というに違いない。

 きっと彼女の中では、若くして死ぬことが一つの在り方として成り立っていたのだろう。

 穏やかな表情を浮かべている彼女の内側に、そんな意識が強く流れている。

 私は、その意識に強く向き合うべきであった。

 今度こそは、あのような幕切れをしないためにも。

 ごうごうと、私達を吸い込もうとする音がする。

 光が、黒に覆われていく。

 電車は、再びトンネルへ――。

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