第3話 死者を弔った夜に
日はとっくに沈んでいる。暗闇に包まれた世界に、街灯の光がおぼろに煌めく。
深い黒と淡い白の中に、しとしとと雨の音が響く。
彼女も私も、黒い服を着ていた。その黒は、去ってしまった人を弔うための服。
つまりは、そういうことだった。誰かが死んで、その人と別れを告げる儀式。今はその帰り道だった。
ゼミの先生が突然死んだ。脳の血管が切れたとのことだった。
死因の説明をされても、ピンと来ない私がいた。それはなぜかというと、つい昨日まで先生は元気に講義をしていたし、私もそれを聞いていたからだ。
そうなればそうなるのだろう、というのは知識で知っている。けれど、それの結果だけを提示されても、それをすぐ受け入れるというわけにはいかない。
昨日の現実と今日の現実が、まだ私の中で地続きになっていなかった。
……あるいは、私が先生に対して、そこまでの愛着を持っていなかった、悲しむほどの相手ではなかった……のかもしれないが。
ゼミ生が泣いている中で、私はどうしても涙を流せなかった。俯き、自身の顔が誰にも見えないようにすることで頭はいっぱいだった。
もし泣いていないところを誰かに見られたら、それだけで咎められるかもしれないと思ったからだ。
『どうして泣いていないの?』
『先生が死んで悲しくないの?』
そんなふうに糾弾されるのが怖かった。
別に私の心の動きなのだから、私の勝手だと思うのだが、残念ながら他人というものはそれを許してくれない。人の心に土足で入ってきて、“自分が正しいと思う行い”を相手にもさせようとする生き物だ。
そういえば、彼女はどうだったのだろうか。
泣いたのだろうか。それとも私と同様にしていたのだろうか。
彼女を見る。彼女は普段と同様の、冷涼さを伴うような美しい相貌のままだった。涙で化粧が崩れた様子もなさそうだ。
「先生は幸せだと思うわ」
彼女がぽつりと口にした言葉。私はそれに目を丸くしつつ、その理由を問うことにする。
「それは、どうして?」
私の問いに、彼女はいつも通りの微笑みを浮かべる。欠片の動揺も、そして憐憫もないその表情に、彼女が先生の死に対して抱いている感情を察した。
それは、何も無い。何も無いのだ。
先生が死んだからといって、彼女の中に変化が生まれたりしない。
彼女は、彼女のままそこにあった。
「だって苦しまずに逝けたもの」
「……わかるの?」
「まあ、半分はそう決めつけただけだけど。……けれど、何年間も寝たきりになって、チューブで栄養を流し込まれるようになるよりは、ずっと楽だと思うわ」
彼女の言葉は全く冷ややかで――、だからこそ、何か強い裏打ちがあるのだろうと感じさせる。
「それに」
と彼女は続ける。
「それに?」
「それに時期もよかった。ぴんぴんコロリで、しかもまだ六十半ばで若い。お通夜の会場、私たちをはじめとする生徒たち、元生徒たちが結構集まってたじゃない?」
「それは、そうだね」
「だったら、今日の通夜に来た人たちは、きっと先生のことを『慕われていたんだな』と思うわよ。『沢山の人に愛された人だ』と他人に思われて逝くのは、この世界で残せる名誉の一つだと思うわ。きっと、それは死の値段を高める」
死の値段。彼女が死に対して抱く無機質な考えに、私の中の常識が揺れる。
死とは恐ろしいもの、忌避すべきもの、悲しいもの――、ではなかったか。少なくとも、私が暮らしていた世界ではそうだったはずだ。それは、先ほど泣いていた生徒たちを見てもわかる。
そんなものに対して、彼女は値付けを行っている。それは恐らく、世間一般において敬遠され、場合によっては軽蔑されるべき行為なのだろう。私もきっと、そうしていた。
彼女じゃなければ。
彼女が、美しさそのものが、そう言っている。
ならば、それは正しい。
彼女は客観的に、冷静に、先生の死に対して向き合っていた。それは涙を流して感情を発散するよりも、ずっと真摯に向き合っていると言えるかもしれない。
真摯で、そして皮肉的な姿勢だけど。
「そういえば、あなた、ずっとごまかしていたわね」
「…………何が?」
彼女の目が蛇のように細まり、私の意識を貫く。私は身を竦ませ、唾を飲む。
「通夜の間。……みんな泣いてる中で、あなただけは静かだった」
「……そ、そうかな?」
「ええ」
私が誤魔化そうと発した言葉を、彼女は難なく無視して私に切り込む。
「あなたは静かだった。そして、俯いていた。……まるで涙が流れないことを、隠すかのように」
図星を突かれて呼吸が止まる。彼女から言われた言葉を反芻し、意識に空白が生じる。
その空白を。
「ねえ」
縫うように、あるいは貫くように、彼女はずいと私に顔を近づけて、口を開く。
「あなたは……、私と同じにおいがする」
「に、におい?」
それはシャンプーとかボディーソープとか「使ってる石鹸がどうとか、そんな話じゃないわよ?」
……彼女は私の考えを読み取ることができるのだろうか。
「におい、そう、におい」
街灯におぼろに照らされた彼女は、口元に微かな笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
それはまるで、深淵で口を大開きにして獲物を待ち受ける、恐ろしい怪物のようだった。
このとき、まだ私に選択の余地はあった。
私は、逃げることも、できた。
けれど。
「……におい、か」
私はそうぽつりと言い、彼女を見据える。
彼女は、静かに微笑んでいた。
そんな彼女を見れば、私が選ぶ道は一つ。
獲物は、喜んでその身を捧げ、生贄となる。
彼女は私の意図を察したのか、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そう、私とあなたは、同じ生物のにおいがする。同類のにおい」
同類。彼女にそう言われて、心が舞い上がる。彼女は美の化身だ。そんな彼女に同類と言われることは、この上ない名誉に違いない。
それと同時に、いやそれは違うのではなかろうか、と思う私がいた。
彼女は美しく、私は彼女の足下にも及ばない。いや私自身、人並みの容姿ではあるんだけど。問題は彼女がその人並みを、五百段ぐらい飛び越えていることだった。
「同類よ、私とあなたは。きっと、根っこに流れるものが同じ」
「……そうかな」
「そうよ。あなたがずっと私を見ていたのは、どうして?」
「それは……えっと……」
「今までよ。出会ってから、今までの話。今日だけの話じゃないわ」
どうして、と問われて私は言葉を詰まらせる。
私が彼女をずっと見ていた理由? そんなのは簡単だ。
彼女が何よりも綺麗で、美しかったから。……けれど、それを直接彼女に言うのは、少し恥ずかしい。
「包み隠さず答えてね」
彼女は柔らかい口調でそう言ったが、それは命令の響きを内包している。
上位の存在に命令されたならば、下位のものはそれに従うしかないだろう。
意を決する。
「……それは、えーと、その……綺麗、だったから」
そう言い終えて、顔が真っ赤になるのがわかる。俯き、上目遣いに彼女を見る。
彼女は私の言葉を聞いて平然と微笑みを浮かべていた。そこに欠片の動揺も垣間見ることはできない。
「なるほど、そういうことだと」
彼女は私の言葉を、謙遜も否定もせず、ただ受け入れる。
ああ、と私は理解する。彼女は自身の価値をよく理解しているのだな、と。
彼女は自身がこの世界の誰よりも美しいということ、普遍的に美しいということ、内面外面を問わず美しいということ、それをこの世界で一番理解していた。
「……そういうことだと、そういうわけだと、あなたは思い込んでいるのね」
「思い込みってわけじゃ……」
「そうかしら。あなたが私をずっと見ていたのは、私が思うにこの一点」
彼女は人差し指を立てて、呼吸を溜める。
「私とあなたが、同じ生き物だから。同類だから。あなたは、私を見ていたのよ」
「……それは」
「わからない。と言いたくなる気持ちも、わかる。だから」
彼女は破顔する。普段彼女が見せないような表情に私が驚いていると、彼女はその驚きを上回るような、信じられないことをさらりと発するのだった。
「ねえ」
と彼女は切り出す。刹那の空白。それが、やけに長く感じられる。
彼女が、続けて口を動かす。
「私たち付き合いましょうか」
「……え?」
彼女が唐突に放った言葉に面食らう。彼女はまっすぐ私を見つめていた。
「それはえっと、その」
まごまごと私があれこれ言っている間も、彼女は私を見据えている。
それはきっと、答え以外の言葉を待たないという意思表示なのだろう。
イエスかノーかの二択。きっと理由を聞いても、彼女から答えは返ってこない。今の彼女は、ただ待つだけ。探りを入れることもできないはずだ。
私が彼女に釣り合うのか、という疑問が生まれる。
彼女の底知れなさに恐怖を抱いている本能がある。
そして。
ここでこの機会を逃せば、一生後悔しながら生きていくことになるだろう、という確信があった。
だから私は。
「…………えっと、その、こんな私、ですけど」
たどたどしく、懸命に言葉を紡ぐ。
「よろしく……お願いします」
私がそう言うと、彼女はただ静かに、完璧な微笑みを浮かべる。そして、口を開く。
「ええ、よろしくお願いします」
死者に別れを告げた静謐な夜。
慎み深くあるべき夜。
彼女と私は、そういった関係になった。
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