第2話 あの世特急、あの日行き

「…………あれ?」

 覚醒する。いや覚醒してはいけないのだけれど。

 私は永遠の眠りについているはずだった。けれど、起きてしまった。

 自死の計画は失敗した――。そう思ったのだが。

「…………ここ、どこ?」

 私は、少なくとも自室ではない場所にいた。

 目の前には空席が二つ。その作りに既視感を覚えていると、どうやら電車のボックス席であることに気づく。

 私は自室にいたはずだ。なのに、どうして。

 そんなことを思って隣を見ると、そこにいた人に驚愕する。

 隣に座っていたのは、彼女だった。

 あの日、この世を去ったはずの彼女がいた。

 混乱と狂喜が入り混じり、思考にはノイズが走りまくる。

 ――どうして彼女が。

 ――彼女と再び会えて嬉しい。

 ――彼女のことが好きだ。

 ――ああ肌綺麗。舐め回したい。でもそんなことしたら怒るんだろうな。というか怒っているのかな。

 ほんと顔整ってるな――。

 などなど、私がそんなことを考えていると。

 彼女が私を見た。彼女と目が合い、呼吸が止まる。

 体温の上昇を私が感じていると、彼女が口を開いた。

「やあおはよう」

 緊張の頂点で聞いた彼女の言葉は、長閑な響きを帯びている。

「……お、おはよう」

 私は面食らったまま言葉を返し、結果、欠片も面白くない挨拶になってしまう。おかしい、彼女と一緒に居た頃は、もっとスムーズに話せていたのに。

「そろそろ始まるよ?」

 彼女が窓の外を見て言う。陽光に照らされた彼女の相貌は、私の寝ぼけた頭を明瞭にさせる鮮明さと美麗さを、十二分に伴っていた。

「始まるって、何が?」

 彼女と、彼女の背後で流れ去っていく田畑の光景を眺める。どうやらこの電車が走っている場所は、覚えがある路線みたいだ。

 この電車が走っているのは、彼女と一緒に旅行へ行った際、使った路線だった。だから、どう流れるか、何が見えてくるか、はっきりと覚えている。

 彼女に関わることは、全て覚えている。……それだけは、断言できる。

 しばらくしたら、電車はトンネルに入るはずだ。

 ごうごうと吸い込まれるような音がしたと思ったら、私と彼女が乗る電車は、その中に飲み込まれる。

「始まるよ」

「……えっと、何が?」

「説明はいらない。きっとわかる」

 彼女は小首を傾げ、柔らかく微笑んで言う。精緻に描かれた絵画の如く完璧なその笑みは、何度も見たはずのその笑みは、いつだって私の目を釘付けにする。

 綺麗だな、と何百回目かわからない感想を彼女に抱く。あるいは何千回目かもしれない。

 そんなことを考えていると。

 光が、私を包んだ。


                 ○


 彼女とは大学で知り合った。初めて彼女と話したのは、ゼミの新歓飲み会だっただろうか。

 と言っても、私は彼女をゼミで出会う前から知っていたのだけれど。

 それは何故かというと、実に単純で素晴らしい理由。

 それは、彼女が美しいからであった。

 とある春の日。

 この学校、いやこの世界で、たった一人別の生き物のような、そんな美しさと存在感を放っている人を私は見つけ、目を奪われた。

 その人こそが、彼女だった。

 いつ頃彼女に気づいたかと言われれば、たぶん入学してすぐ。

 キャンパスですれ違った一人の女性に、私の目は奪われたのだ。

 それ以来、私は彼女のことをずっと覚えていた。ずっと意識していた。ずっと探していた。 

 いつしか、彼女と私は一緒の学部だと知った。けれど、共に授業を受ける機会は一度も訪れなくて。

 そんな彼女と三年生で一緒のゼミになったのだから、驚きは言うまでも無い。

 そして飲み会。私と彼女は、隣り合う席に座ったのだった。

「かんぱーい」

 先生の音頭の後、ゼミ生全員で乾杯の大合唱。その声は私にとって雑音に過ぎず。

「……乾杯」

 ただ隣に座る彼女の声にのみ、耳を全力で傾ける。彼女はハイボールを一息で半分近く飲んでいた。私はそんな彼女を見て、(お酒、強いんだなあ)といった感想を抱く。

「どうしたの?」

 ぼんやり彼女を見ていると、私の視線に気づいた彼女が柔和な微笑みを浮かべて尋ねてくる。予想していなかった彼女の反応に、私はどぎまぎしながら、「い、い、い、いや別に?」と返す。声が少しひっくり返ってしまった。

「……そう」

 彼女は短くそう言って、目線を私から食卓の方へと移す。長テーブルをゼミ生が囲むように座っている。カセットコンロと鍋があるので、あとで鍋料理を食べるのだろう。

 鍋。食べ方や作り方によって人間性が出てくる料理……だと個人的に思う。

 例えばぶっきらぼうな人が実は鍋奉行をしてくれたり、実家が甘そうな人が人の作るままよそうままに食べたり、とか。

 彼女はどのような食べ方をするのだろうか、と考えた。

 しばらく経過し、飲み会は佳境へ。鍋料理が運ばれてくる。

 私と彼女が居る場所は長テーブルの端で、本来なら四人で鍋を囲むはずなのだろう。

 けれど、今いるのは私と彼女の二人きり。他の二人は、長テーブルの反対側で酒を飲んでゲラゲラ笑っている。いや、これは実にありがたい状況なのだけれど。飲み会が終わるまで他の二人は帰ってこなくて良い。

「あ、すいませーん芋のロックくださーい」

 彼女が店員さんにドリンクの注文をしている最中、私は鍋に野菜を投入して煮ておく。

 というか、彼女たぶんこれで六杯目ぐらいか。本当に、お酒強いんだな。

「ありがとう」

 彼女が突然礼を言ってくる。

「え、え、え、何が?」

 私は何故彼女が礼を言ったのか、それにどう反応していいのかわからずに、動揺してしまう。

「鍋、作ってくれてる」

「あ、これは……なんていうか」

 私以外誰も作りそうにないから、とも言えないし。彼女に作らせたくなかったから、とも言えないし。後者は、彼女の手を煩わせたくない、という意味で。

「美味しくいただくね」

 ふわり、と彼女は微笑んだ。その笑みを見て、私は衝撃を受けたような気がした。

 いや実際に受けたのと同じなのだろう。心臓は一度大きく跳ね上がり、血流が加速し視界が揺れ、その後明瞭になる。私の眼が鮮明に映した彼女は相変わらず美しかった。いや美しさに拍車がかかっただろうか。

「どどど、どうぞどうぞ。お粗末……いやお粗末って言ったらお店に失礼か。えーと、うん頑張って作るから」

 動揺と緊張で舞い上がってしまう私である。

「ふふっ」

 私の言葉を聞いた彼女が小さく笑う。

「な、なんかおかしかった?」

 私が問うと、彼女は首を横に振る。

「いいや、ちっともおかしくない。私が笑ったのは、貴女が可愛いから」

「か、かかっ……!」

 可愛い。彼女から言われたその言葉を受け止めると、体中の血液がわき上がった。顔がゆでタコのように赤くなっていないか、と頭の片隅で不安に思う。

「いいい、いやいやいやいや、そそそ、そんなことはっ」

「そんなことは、あるよ」

 彼女は静かにそう言って、目を細めて私に顔を近づける。彼女が近い。至近距離で見ても彼女の肌は白磁のように滑らかだった。ほのかに花の香りが漂ってくる。

「あなた、私のことずっと見てたでしょ」

 彼女がさらりと言ったその言葉に、私は目を丸くし、体を硬直させる。

 図星だった。

「……一年生の頃から、今日まで」

「……………………えっと、その」

 どう返せばいいかわからず、口ごもる。

「ああ、別に貴女を責めるとかそんな気は毛頭ないわ」

「……ご、ごめ」

 私が謝ろうとすると、彼女は私の口を手でふさいだ。

「謝らなくて良いの。別に謝ることもないし、謝られたくもないし。ただ」

「ただ?」

 口が解放された私は、彼女に問う。鍋の火が揺れる音が、野菜がくたくたになっている音が聞こえていた。

「嬉しかった」

「嬉しかった……?」

「ええ、あなたという人間の意識を、私が強く惹けたこと。それが」

「そ、それは……そのえっと……、どういたし、まして?」

「なんで疑問系なのよ」

 彼女が破顔する。私もつられて笑った。

「……私、あなたのことが気になるわ」

 まっすぐ私を見つめながら彼女が紡いだ言葉。それは破壊力が高すぎた。

「そ、それは、えっと、その」

 本来なら私はここまでシャイな人間ではないのに、彼女が私をそうさせてしまう。

 飲み会は音に溢れているはずである。

 でも今、私の耳に入っているのは彼女の言葉、彼女の息づかい、彼女の衣擦れ。彼女に関することばかりだ。

 自分の心臓の音すらも、どこかへ置き去りにしていた。

「……だから、これから仲良くしましょうね」

「そ、それは、もう!」

「えーと、ラインとか教えてくれたら嬉しいかしら」

「あ、うん待ってて!」

 私は舞い上がりながら、スマートフォンを取り出す。すぐさまラインを起動し、彼女と連絡先を交換する。

「あ、ありがとう」

「いえいえこちらこそ」

 彼女は短く息を吸って、その澄んだ漆黒の瞳で私を見る。彼女の瞳に映る私が見えた。

「いつでも連絡していいかしら?」

「そ、それはもう!」

 彼女の言葉に、強く首肯する私であった。

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