第11話

 嗣志が宮殿に戻った時、見慣れた海棠がいつものように花弁を降らせていた。薄紅色に染まった下生えにしゃがみこんだ宵雪は嗣志の姿を見て立ち上がる。纏う衣装はくろうすもの。肩にかかる羽衣は蟻の羽の色。雲のような白い髪は一つに束ねられて背に垂れる。幼い頃から嗣志の方寸こころの中心に座す女神、そのものであった。

 宵雪の拡げられた両腕を受け入れる。宵雪の方がまだ背が高いものの、すでに嗣志は大人であった。少年の頃のように乳房に顔が埋まって窒息することはない。後ろに回した手で宵雪の髪を撫でるのは恋人のようである。

 宵雪のためなら死んでもよいと、もう二度と会えなくなってもよいと、そればかりを考えていた。全ての罪を背負って処刑されるつもりでいたので、またここに立っているのが不思議だった。結婚の話をされてあらゆる感情が洪水の如く押し寄せた。その覚悟が踏みにじられたような思いさえ抱いた。しかしこうして対面してみれば愛おしいばかりであった。


 宵雪は年季が明けたあとのことを知っているのだろうか。なんと伝えようか、どう話し合おうかと、言葉を探し、何も言えず。

 先に口を開いたのは宵雪であった。


「嗣志。今までわたくしのために、ありがとう。もうあなたは幸せになっていいのよ」


 宵雪のその一言で、嗣志の中の硬く凝り固まった何かが融けていくようだった。


 数日後、嗣志は復命のために貴人に謁見した。冠礼を終えたのに冠をつけず、ただ髪を巾で覆っているのは、耳が邪魔であるからである。嗣志は持ち帰ったものを貴人に差し出す。宵雪の首環の欠片とともに書状が添えられている。

ヤンの姓を名乗るのは、彼女を娶らぬという意思表示なのかね?」

宵雪の書状に書かれた、冠礼によってつけられた嗣志の正式な名を読んで、貴人は問う。姓が同じであれば親族と看做され、婚姻は近親婚となり忌まれる。

「母を犯す禁忌に触れた私に、今更同姓を気にする謂れがありましょうか。この先夫婦として結ばれることがあろうとなかろうと、少なくとも母子の縁だけは絶たぬという思いで、願って同じ姓を賜りました」

「なるほど。……それで、どうだった?君のとの面会は」

「恥ずかしながら、会うほどに未練絶ち難く」

貴人は嗣志を微笑ましげに眺めている。

「そうか。これから長いだろうけど、頑張るんだよ」

「はい」

「会うことはさせてやれぬが、手紙のやりとりぐらいはしてもよいのだからね」

「お心遣いに感謝いたします」

宵雪は嗣志を飼い馴らすための首環である。嗣志に彼女の無事を確認させ続け、さらには情という鎖で繋ぎ留めておかなくてはならない。貴人、仙界の思惑を嗣志がどこまで理解しているかはわからない。が、完全に理解されていたとしても、利害が一致している限りは何か言ってくることはないであろう。兎にも角にも、は成立である。

「さて、当面不穏気配はない。君はしばらくは好きなことを学ぶことができる。まず何を学びたい?書物でもなんでも、大概のものは融通しよう」

「……人を見てみたいです。私のこれまでは、強い情に呑み込まれて突き動かされるようなものでした。人の心とは、抗えないような激しい流れを生み出すものだと知りました。多くの人に会い、その心を眺め、あるいは怒濤に揉まれてみたいのです」

「そうか。君は中立であってもらわねばならないから、どこかに所属させることはできないし、他の仙人に深く関わらせることはできない。だが下界ならば、一方的に覗かせてあげられる。それでもよいかね?」

嗣志は頷く。


 嗣志が与えられた新居は、淵のほとりの庵であった。淵の傍には黄金の蜘蛛が設えてあり、これはかの貴人の術具である。蜘蛛は嗣志でも起動できる。気を流し込むと淵の水面に下界の風景を映し出し、覗く事ができる。消費する気の量が膨大で、不調を覚えない範囲の使用であれば、昼過ぎに起動して夕方までという程度である。午前中を鍛錬に費やし、午後は釣りをしながら下界を覗き、夜は灯火を用いながら読書や細工に勤しむのが嗣志のここでの日課であった。

 広げられた宵雪からの手紙の傍にある、真新しい文房具はまだ使用されていない。いざ手紙を書こうとすると言葉にならないのだ。嗣志はいまだに、自分は宵雪と分かれて生きるべきだと考えていた。が、周囲は宵雪との縁を取り持とうとしているのがわかる。憎くて別れたのではないだけに心は揺さぶられた。背を押されるままに決めてしまえば悩まずに済むかといえばそうではないのだから。

「(もう二度と会えぬと思えば耐えられたのに。五百年は長すぎる)」

宵雪の首環を外すために戻ったあの夜の思い出が辛すぎた。

 罰せられることを望んだ嗣志であったが、皮肉にも、わかりやすい罰よりも温情が堪えた。


 身がやつれぬように養生に気を入れて暮らす嗣志のもとに、出陣の命令が下ったのは、一月ほどのちのことだった。

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