第10話

 嗣志はむしろに座り、とある高貴な人物に対面している。空気に混じる香りは桂花――秋の花である。嗣志が宵雪と暮らした宮殿を出てすでに一月ほどが経過していた。


 貴人は靄のような幻影である。体格も服装も区別がつかないほどぼやけている。顔だけは比較的はっきりとしている。表情はわかるが容貌はつかめない。おそらく本人がここにいるわけではないのだろう。

 嗣志はこの貴人の幻影に判決を申し渡されている。厳威殺害の件は、やむを得ない事情があった事と、宵雪と嗣志の要求はあくまで交渉であり殺害に至ったのは自衛であることから、かなりの温情を賜ることができた。重く見られたのは嗣志の強化のほうである。宵雪は自制を欠き天下海内の均衡を乱しうる行為をしたのは二度目であることから、五百年の禁錮。嗣志は反省と恭順の意を示していることから、貴人の預かりとなり、五百年の間働きぶりを見る。これは罪の軽重よりも、嗣志が持つ力のために、押さえつけることができないであろうという判断が大きかったようだ。嗣志本人は、厳威との無様な戦いを恥じて過剰な評価を受け入れ難く思っており、また何より厳しく罰せられる事を望んでいたが。


「君たちはずいぶん正直者なようだね。証言に矛盾はほとんどなかったよ。お互いに『自分が主犯だ』と主張する以外は」

貴人が口を開く。これは非公式な会話だから好きに話していい、と付け加える。

「我が師には殺意はありませんでした。ですが私には殺意があり、実際に手を下したのも私です」

嗣志はこれまで何度も主張してきた言を繰り返す。貴人は目を細めている。

「あの宮殿で、君の師が他の仙女たちとあまり交流していなかったのもよかったのだろう。多くの仙女は彼女の敵でも味方でもなく、証言は客観的で一致していたし、味方をする者は多少いたが嘘をついてまで肩入れはしなかった」

嗣志は宮殿で会った仙女たちの顔を思い出す。

「君が正直であったことは評価しよう。だが厳威を殺したのは行き過ぎであったろう。あれは仙界にとっても貴重な人材だったのだよ。一個の武人としても強く、兵を率いても強かった。あの紙と陶器の兵が素晴らしかったのだよ。名将の意のままに動く使い捨ての兵士だ。生身の兵ではできない事を簡単にやってくれる」

「返す言葉もありません」

「性格は難ありであったけれどね。あれは他人の気持ちに疎い。本人が自覚しないところで、遠巻きにされたり恨みを買ったりは多かったのだよ。過ぎた事だけれど、宵雪が外に助けを求めていれば、誰もが厳威の虐待を信じ、彼女を助けただろう。宵雪の方が外を信じていなかったのだろうね。彼女を罪人として討伐指令を出し、厳威との結婚を恩着せがましく説き伏せて納得させたのは我々であるのだから」

「それでは駄目だったのです。我が師は円満な決着を望んでいました。厳威将軍の行為が家庭の外に漏れて彼の面子を潰すわけにはいかなかったのです」

「なるほど。では君は、自分たちのとった方法が最善であると思っていた?」

「いいえ。殺人は悪であり、武器を取った以上『殺意はなかった』は通らないでしょう。脅しのつもりだった、などと言うつもりはありません。私は、彼女を助けるために、最初から彼を殺すつもりでした」

貴人は嗣志を見つめて、何度か頷く。


「さて、君の処遇だが、どのように理解しているだろうか」

「本来なら死罪が妥当であるべきところを、格別の温情を賜ったと存じます。師が禁錮であり私が労役であるのは、おそらく気の量による差でしょう。拘束のためにあの首環に近いものが使用されるのではないかと」

仙界では成文法を採用していない。前例や相場のようなものはあれど、これをすればこういう刑罰、という決まりはない。嗣志が『本来は死罪』とする根拠は、人を殺せば死罪という慣例によるものである。

「当たらずとも遠からずだね。この件は、そういう民衆の次元の揉め事として見られてはいない。君という在野の人材が発見されたと、つまり政治の次元で判断されている。強引に考えれば、その途上で厳威が『殉職した』という見方もできるかな」

「……私は厳威将軍と戦いで、さほど善戦したとは思いません。買いかぶり過ぎでは」

「君はまだ若い。将来性を含めての買い物だよ。君をどこに所属させるかでかなり揉めたのだよ。師匠筋で言えば王母娘娘が候補であるが、彼女の麾下きかは女性だけだから。房中術での他者強化を使えるであろう君を、女仙と一緒するわけにはいかない……。五百年という時間は実戦を積むためでもあると思ってくれたまえ。わたしのところには他に将はいないから同僚はいない。この間は部下を持たせてはやれないし、私兵を抱える許可も出されないし弟子もとらせない。年季が明けたとき、君が忠臣となっていれば実力に応じて取り立てて部下も与えよう。逆に危険と判断されれば年季に関係なく、朕の庇護は離れ、丸裸のままに討伐指令をくだされることになる」

嗣志が役に立つなら今回のことに目を瞑るが、叛意が見えれば処罰する。諸々の処遇は、嗣志が見えぬところで徒党を組まないようにするためであると貴人は言っているようだ。また、交友関係をいくらでも叛意と看做され、疑われさえすればわかりやすい罪状がなくてもいつでも討伐の口実が作り出せる、とも言えるだろう。嗣志が思ったほど仙界は甘くなかったようだ。

「承りました。私の仕事は、具体的にはどのようなものなのでしょう」

「君に統治は任せられないから、軍事ばかりになる。内向きの仕事と外向きの仕事がある。ほとんどが内向きの仕事……仙界内での小競り合いだね。我々も一枚岩ではなく、派閥もあれば反乱もある。下位世界である下界への積極的な干渉はないが、あちらで仙人や妖怪の不祥事があれば出向く事もある。外向きの仕事は、我々の領地の外側にある世界との戦いだ。時々、侵略戦争が起きることがある」

走狗として駆られながら経験を積めということであろう。戦闘がどのくらいの頻度で発生するのかはわからないが。嗣志としては、日課を変えずに済むのならそれに越したことはない。


 嗣志は素直に貴人の話を聞いていた。いくらかの間があり、貴人は声の調子を変えて言う。

「……ところで、君は何か言い忘れてはいないかね?」

「我が師は息災でしょうか」

「ああ、それもそうなのだが」

黙って見つめられること数十秒。

「君はと当然思っているね?今まで一言も言っていないが」

嗣志は貴人に対していることを忘れて顔を上げてしまう。すぐに視線を落とし貴人への直視を避けた。

「……考えてもいませんでした」

目の端に捕えた貴人の表情は苦笑であった。

「彼女の扱いは我々も困っている。彼女が野心的な男に惚れて力を与えるのを何よりも危惧している。殺さずに禁錮で済ませたのは、彼女の気持ちが君というおとなしい男に向いているからという理由もあるのだよ」

嗣志は袖の中で冷えた指を擦る。

「我が師に然るべき伴侶が必要なのはわかります。だがそれは私ではないと考えています。己の母であり、他人の妻である女性と密通し、その夫を殺して奪うなど……許されるはずがない」

「では君はなんのために命を張ったというのだ?彼女を得るためではなかったのか?」

「もちろん彼女の幸いのためです。彼女が安心して暮らせるならばと、二度と会えぬ覚悟してやってきたのです」

貴人はここでようやく嗣志の歪みに気づいた。彼は宵雪の幸せな未来を思い描き、その絵に自分を描き忘れたまま突き進んでいたのだ。彼の自己犠牲と評価を受け入れられない自虐は、罪悪感――妙に厳罰を望むのは、宵雪への罰を身代わりに受けようとするだけではなく、そうしないと納得ができないのだ。ではなく、のだ。宵雪によって、幼い頃から共犯者として育てられてきたためであろうか。五百年、真面目に勤めた暁には、褒美として宵雪との結婚の許しを用意していると伝えようとしていただけに、これには少々閉口した。

「狼は一度つがいを持てば、例え死別しても他の雌と再度番うことはないという。君の番は宵雪で合っているのだね?」

登仙とはその者の本質の純度を増し、魂が剥き出しになる、極めて繊細な現象である。禁欲をもって羽化を果たした仙人が女の素足で力を失うほどに脆い。前身が獣であった者は、その獣の本能はより強くなる。そしてその本質から逸脱した場合、存在を保てなくなるほどに危うい。

「はい。正式な婚姻こそしておりませんが、彼女こそ私の生涯でたった一人の女性です」

即答する嗣志に貴人はなんとも言えぬ思いをいだきながらも、気を取り直して告げる。

「完全な悪人はおらず、完全な善人もまたいない。五百年かけて、学びたいことはすべて学んで視野を広げたまえ。それからの話は、君が自分を許せるようになってからでいい」

嗣志はなんとなく恥じ入りながらも、小さく「仰せのままに」と答えた。


 貴人は格子の嵌った窓の外を見やる。日の傾きを伺うのは退出の合図である。嗣志は姿勢を整えた。

「そうそう」

忘れていたことがあったのか貴人が付け加える。

「君の名はたしか、その幼名ともあざなともつかぬそれだけなのだね。それだと勤めに困るから、宵雪に正式な名をつけてもらってくるように。それと、彼女の首環を外しておいてくれたまえ。そうしないと彼女の身柄を移せないからね」


 退出し渡り廊下を歩く嗣志の目に映ったのは、濃緑の葉に映えて白い桂花だった。あのただただ強い香りの元は、この意外にも慎まやかな小さな花であったかと、ようやく思い当たった。

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