第8話

 宵雪は隠しておいた秘蔵の仙薬を大慌てで服用していた。宵雪は仙薬づくりも下手だった。これは他の仙女から、厳威の貢物と物々交換して手に入れたものだ。溜め込んでいるのを悟られないように、少しずつ何人もから。

 自分のものではない気が体内に満ちるのには悪心が伴う。えづきながらも、嘔吐しないよう少しずつ、しかし最大限に急いで。吸われた気を補って、早く嗣志のもとに戻らなければ。嗣志の首環が外れたことがばれているのだ。今ここで片をつけなければ次の機はない。


 嗣志の首環が外れたのは、偶然の発見がきっかけだった。嗣志――仔狼を与えられてしばらく経った頃のこと――。

「(前夫との間の子が殺される直前、加冠げんぷくのお祝いをしたのだったわ。あざなをつけて……。それで、そろそろ二人目を作ろうって。兄弟でお揃いの字をつけようって……。)」

まだ腹に宿らぬ二人目の子につけようと思っていた字を、その仔狼の呼び名にしたのだった。

 宵雪は仔狼――嗣志を溺愛した。美味しいものを食べさせようとして、食あたりをさせてしまった。首環があれば、月が上れば治るとはいえ、吐き下して脱水を起こし、ぐったりした嗣志を見捨てておけず、癒やしの術を使ったのだ。

――宵雪は加減を知らない。

小さな仔狼が保有するにしては尋常ではない、大量の気が嗣志に注ぎ込まれた。宵雪のものよりずっと小さな首環は、宵雪よりもずっと弱いものしか封印できなかったらしい。封印可能な許容量を超えて、パチンパチンと音をたてて、装飾が飛び、ひび割れた。

 弾け飛んで額に当たった首環の欠片を見て、宵雪にひとつの考えが浮かんだ。

「(嗣志は雄だわ。育てて房中術で強化して、今度はわたくしに気を注いで貰えれば、わたくしの首環もこうやって外すことができるわ)」

 それだけではない。厳威は自分をモノのように扱っているが、好意がないわけではないのだ。ただ、自分の方が圧倒的に立場が上だと思っているから、あのように振る舞うのだ。自分一人で厳威に勝てない。だが嗣志と共闘すれば? 彼の支配から脱出し、武を示して認めさせ、対等な立場にたてれば、話を聞いてくれるかもしれない。

「(落ち着いて話すのよ。わたくしは彼を愛することはないけれど、感謝はしてるのだと。そして今までのお礼を言って円満に離縁するのよ)」

 宵雪は厳威への憎悪を滾らせていた。が、同時に恨むことに疲れてもいた。憎くて仕方ない相手がべったりと優しくしてくれるのが、気持ち悪くて仕方がなかった。嫌で嫌で仕方ないのに、術や薬で強引に感じさせられ、体だけでなく心まで犯し尽くされるような、矛盾に満ちたねやに気が狂いそうだった。心を凍らせて壊し、正気を手放してしまえばどんなに楽だろうかと何度も考えた。宵雪の正気を繋ぎ止めてしまったのは、いかにすれ違ったものであろうとも、厳威の好意を無下にできない優しさ――否、誰かに愛されたくてたまらない、寂しくて弱い心による優柔不断さが、矛盾を矛盾のままに受け入れてしまったせいだ。その矛盾をさらなる矛盾で相殺する『円満な離縁』という希望が、その後宵雪に強さを与えたのである。


 嗣志が宵雪の計画を受け入れてくれた時、まだ体は育ちきっておらず、性交を伴う強化は施せなかった。それでも少しずつ、厳威の目を盗んでは注ぎ込んで、嗣志の気を増やしていった。

 性交ができるようになってからは本格的に、宵雪が知っている房中術の技術を、実技をもって嗣志に教えこんだ。何事にも真面目で研究熱心な嗣志はよい弟子であった。嗣志が彭祖修練久戦の法を使えるようになると、強化は効率をぐんと上げた。

 やがて、彭祖修練久戦の法でなく普通に交わるだけで、宵雪の首環が熱をもち、砕ける兆しを見せ始めた。嗣志の気の量が、宵雪を上回った証であった。だが宵雪は「まだ機ではないわ」と、それからも彭祖修練久戦の法で宵雪から嗣志に一方的に気を注ぐ形で強化を続けた。首環を外すだけでなく、厳威に確実に勝てるようにという思惑もあった。だが一番の理由は、感情の表出に乏しい嗣志が、このときばかりはその瞳に熱を持たせて、宵雪の体に夢中になっているのが愛おしくてたまらなかった。――それだけのために過剰な強化を施し続けたのだ。


――宵雪は加減を知らない。


 宵雪の千年狐狸精としての規格外の量の気のほぼすべてを注ぎこみ、濃やかな愛情をつなぎとして、その殆どを嗣志が自分の気と同化してしまえるようになったのは、このほどのことだ。


 かくして、情愛と快楽に溺れた宵雪により、嗣志はその一個の存在で仙界をひっくり返してしまえるほどの、超戦略級兵器へと育て上げられてしまったのである。


「(待っててね嗣志。すぐに行くわ。あなたの力を借りるとしても、わたくしが自分であの人と対決しなくては、何の意味もないのよ)」


 始めただの打算であった。番犬と飼い主に過ぎなかった。だが嗣志は宵雪の希望そのもの。愛しく思わないわけがない。

 子が母に向ける無垢な信頼。

 弟子が師に向ける尊敬。

 何かもっと近しい慕情。

 異性としての情愛。

 あらゆる暖かな感情を向けられて、宵雪の寂しい心は満たされた。愛して、愛されて、自分の運命を嘆いて、嗣志に不義を犯させたことを懺悔した。

 来たるべき厳威との対決の日に、誰よりも頼りにしていた一方で、巻き込みたくなかった。

 厳威に養われていながら手を噛むのに忍びず、だらだらと先延ばしにして、嗣志に罪をさらに重ねさせてしまった。


 だがそれも今日まで。


 二人で話し合った策を、嗣志がすでに仕掛けているに違いないのだ。

 宵雪がするべき動きはわかっている。

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