第7話
嗣志の銀の耳と尾を見て厳威が目を
「お前、宵雪の飼い犬だな。首環はどうした」
「……まずは交渉を」
嗣志は厳威を無視して話を進める。わざわざ手の内を明かす必要はない。
「こちらの要求は楊宵雪との離縁です」
厳威は懐から獲物を取り出す。彼の武器は紙と陶器と銭である。彩糸で連なった銭をだらりと地面に垂らす。
「離縁? してやろう。こんな妻はもう要らぬ。間男には死体をくれてやる」
厳威の銭が一丈ほどの高硬度の金棒へと変じ宵雪に打ち下ろされる。宵雪が防護の結界を張ると同時に嗣志の光球が放たれる。
「止めなさい嗣志。殺してしまうわ……わたくしを置いて逃げて」
「我が師よ。貴女はご自分に結界を。巻き添えを食うのと人質に取られるのを警戒されよ」
先ほどの光球は当たったが、厳威に効いているようには見えない。嗣志は二十四の光球を練る。発射された光球の軌道は大きく曲がり、数瞬ずつ時間差をつけながら厳威の任脈――前正中線の経穴を狙って自動追尾する。厳威がそれらを打ち落とすために後退したのを合図に、様子を見ていた楼の下働きの見習い仙女が宵雪を避難させた。
「むざむざ殺させぬ。俺はあなたを倒すために今日まで鍛錬を積んできたのだ!」
すでに次の光球の生成を終えた嗣志は厳威の脳天を襲う。掌ほどの紙が盾と変じすべての光球を防ぎきって砕けた。
厳威は嗣志の光球が徐々に威力を増しているのに気づいた。
厳威が武器に媒体を使うのは、依代たる実体を芯として用いるほうが、嗣志のように何もないところに気を凝縮するよりも、気の消耗が抑えられるからである。気の量の多さを誇る宵雪が、なすすべもなく夫と子を殺されたのは、単純に厳威の方が気の量が多かっただけでなく、その運用能力の差が大きかった。先ほどの宵雪と嗣志の会話から、嗣志は宵雪から仙術を教わったという推測は容易にできた。
「(宵雪のような無闇矢鱈に気をぶつけるような戦い方は、千年狐狸精だからこそ。若い狼風情があれの真似をして、そう長く保つわけがない)」
厳威は嗣志がいきなり高威力の攻撃を仕掛けて来ないのを、厳威に負傷させられる最低限の威力を探り、気を節約するためだと考えた。
「(こやつの狙いは時間稼ぎであろう。戦いを引き伸ばし、自分を捨て石にして宵雪を逃がすつもりなのだ)」
ここまでの戦い方からして、目の前の相手はあまりに弱い。一撃で
厳威は嗣志に攻撃に加え防御にも気を分配させるために、指ほどの大きさの紙片を弾丸に変じさせ射出した。漆喰の壁に穴を穿つほどの威力の高速の弾を、嗣志は気を纏わせた籠手で受けた。分厚い気の壁に阻まれて失速した紙が宙を舞う。嗣志が弾丸で意識を逸らした隙に厳威は踏み込み、金棒で打撃を加える。脇腹を打ち付けられた嗣志は受け身を取りながら転倒した。嗣志は起き上がりながら自分に癒やしの術を使う。宵雪が使える術は、当然嗣志も使えるものだと予測していた厳威は意外とも思わない。むしろ、気の消耗の大きなその術を使わせるのは利だと考えた。しかしその隙を見逃すはずもなく、紙片を高く舞い上げ、急角度で弾丸を撃ち込む。嗣志は横に体を
嗣志は厳威が間合いをとったのを見、「それでいい」と心中でつぶやいた。この宮殿にいるのは基本的に
嗣志の目的は宵雪が戻ってくるまでの時間稼ぎである。嗣志は彼女の目的を知っていたし、それを今達成しようとしないにしても、彼女は嗣志を置いて逃げられるような性格ではない。そんなことができるなら、そもそもこんな窮地に立たされることもなければ、この修羅場もあり得ない。
「(気を無駄遣いできる余裕はないが、切り抜けるしかない)」
嗣志は光球を練り発射する。その中にいくつか、威力が高いが大きさは同じで気の密度の高いものを混ぜる。厳威の動きに合わせて曲がる光球の弾道から、自動追尾はいい加減読まれているのだろう。厳威の正確な防御は、すべての光球を一枚の小さな紙片で受け止め、最後の一球が紙片を突破して厳威にかすり傷を与えた。
「(ずいぶんと硬いようだ。今のは亀の甲を四散させるほどの威力であったのに)」
次の光球の装填の隙をついて厳威が打ち込む。嗣志が避けて移動しても光球の位置は変わらず、嗣志が先程いた場所から反撃する。厳威は光球をものともせずに、そのまま踏み込んで鋭く突く。吹っ飛んだ嗣志にさらに弾丸を浴びせる。大きく負傷した嗣志が回復するのを見過ごし、後退して構え直す厳威を見て嗣志は彼の慢心を察した。
「(格下の相手をいたぶるつもりであろう。それでいい。致命傷さえくらわなければ問題ない)」
厳威のくれた猶予は長くはなかった。嗣志の傷が塞がるに合わせ、十ほどの弾丸が発射された。倒れたままの嗣志は横転してそれを躱し、多数の弱く小さな光球で反撃する。負傷させることはかなわないが高速の小さな光球は目くらましの役割を果たし、立ち上がりながら十分な攻撃力を持った光球を一つ発射するだけの時間を嗣志に与えた。その光球が当たる前に厳威は陶器の刃を飛ばしており、嗣志の腿から血が吹き出す。この短い時間に何度も大きな傷を負ってしまったことに、嗣志は舌打ちをした。
しばらくの交戦の後、厳威は違和感を覚えた。嗣志が安易に癒やしの術を使いすぎるのだ。
癒やしの術はそもそも、『余剰を回して補填する』という性質のものである。気とは有限である上に、その変換効率はさほどいいとは言えず、体力と気力の総和は癒やしの術を使うたびにどんどん減っていく。戦場では、消耗した者を元気な者が自分の気を分け与えるのに使用するのが常識であった。少数でも重傷者がいれば、その手当てに人員を割かざるを得ない。だが軽傷者なら自分で自分の面倒を見られる。軍全体の運用としては、少数の重傷者を多数の軽傷者に変換するのが癒やしの術の使い方だ。自分で自分に使う場合は、蛸が己の足を喰らうようなものだ。放置すれば失血死するような場合の止血であるとか、利き手の損傷だとか、戦闘続行が妨げられるような傷のみに使うのが普通だ。
嗣志は重傷を負うたびに、ついでと言わんばかりに小さな傷まですっかり治しているのだ。厳威の部下の中で同じような事をする者がいた。少しの痛みにも耐えられぬ軟弱者の新兵で、癒やしの術の使い過ぎで気の枯渇を招き、あっという間に戦死した。
しかし嗣志は違うであろう。痛いのが嫌ならここで厳威の足止めなど買って出るはずもない。それに厳威は嗣志への攻撃は『痛さ』を重視して部位や方法を選んでいるのだ。肝臓や腎臓といった痛い部位を狙うのはもちろん、嗣志の四肢を末端から削り、切り落とし、動けなくなったあとも時間をかけて嬲ろうと思っていた。回復のために嗣志はまだ五体満足な上に無傷であるが、回避も受けも稚拙だ。痛い目にはもう十分遭っている。
厳威の金棒が嗣志の鎖骨を砕いた。嗣志は息を吐いて崩れ落ち、呻きながら回復する。顔が上げられた時、その目は「この隙に俺にとどめを刺さなかったことを後悔させてやる」と物語るようであった。この男に接近を許していれば、拳を壊すことを厭わず全力で殴りつけるために癒やしの術を使っていたに違いないと、厳威に確信させた。
「(なぜだ? 気を節約しながら戦っていたのではないのか?)」
癒やしの術に光球。どちらも燃費の悪い術だ。これらの修行中に気の枯渇を経験しないはずがない。
「(気の節約を装っていたのか? いや、なら光球だけでなく癒やしの術もけちけちと使って見せなければ意味がない)」
と、なれば、癒やしの術は燃費が悪いことを知らないのであろう。だがそれは考えにくい。現に、もう普通なら立っていられないぐらい気を消耗してもおかしくないほど、癒やしの術を無駄遣いしているのだから、少なくとも不調を感じていなければおかしい。
「(ならば……宵雪の仕業か!)」
嗣志が癒やしの術を習得したのが、宵雪の前夫のように、房中術での大幅な強化を受けた後だったのだ。癒やしの術を連続して使ってもどうということもないほどの莫大な量の気を最初から持っていたから、癒やしの術の燃費の悪さを自覚したことがない――それが厳威の出した結論であった。光球の術の習得だけは強化を受ける前であったと考えればこの矛盾の説明もつく。
厳威がその答えを得るまでに時間を要したのは、嗣志と宵雪の間に肉体関係があることを――さらに厳威があれだけ望んでも得られなかった、愛情を伴った形での――認めたくなかったからであろう。
嗣志を掌で転がしいたぶって殺すという余裕を失った厳威は、嗣志に手加減なしの攻撃をぶつける。地割れを起こすような激しい踏み込みとともに撃ち込まれた金棒は、分厚い灼熱の気の装甲を纏っており、紙一重で避けた嗣志の肌をジリジリと焼いた。
炭化した肌に癒やしの術を使う嗣志を厳威は憎々しげに睨めつけた。
「(宵雪の強化がうまく行った場合、どれだけの効果が出るのであろうか。こやつの気の量は、いったいどのぐらいなのだ)」
厳威が感じたのは不安と恐怖であった。
宵雪はあの時「殺してしまう」と言ったのだ。殺されてしまう、ではなく――。
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