第6話
嗣志はこの宮殿に来た時の事はよく覚えていない。気づいたら、宵雪の室で同居しており、毎朝顔を舐めて起こしたり、何故か夜に出かけるので、帰りを一晩中待っていたりしていたのである。獣の本能のままに宵雪を主人か群れの長かと思っていたのであろう。嗣志が世界を認識し記憶を維持できるようになったのは、巻き戻しの首環が外れて、脳が成長できるようになってからだ。
日精月華を得た獣は成長すれば人の姿を取れるようになる、というのが仙界の摂理である。嗣志が人の幼児の姿を取れるようになってからは、宵雪は嗣志を我が子のように扱うようになった。幼いころは、母親というものは絶対的な存在である。自分の延長のようなもので客観視できるものではない。ただ無垢に信頼し愛していた。
のち、子供の姿になってからは、宵雪は嗣志の師として振る舞い、色々なことを教えてくれるようになった。最初は嗣志も素直に様々なことを習っていた。だが成長するにつれ、自習が増え、用事を頼まれることが増え、宵雪の何に対しても適当でずぼらな性格が見えてきた。
いつの間にか、嗣志にとって宵雪は、その技を見て盗みながらも、世話を焼き守ってやらねばならぬ人となった。同時に、自分で仙術の修行をし、宮殿の他の仙女と比較することで、宵雪の強さも理解した。
母のように崇拝し姉のように親しみながらも師として尊敬する女性。その反面、妹のように慈しむべき女性。嗣志にとっての宵雪とはそういう人であった。
とはいえ、二人がともに時間を過ごすのは、半日にも満たなかった日が大半であった。宵雪は宵雪の勤めがあり、また、自分の立場――淫らな術を能くし、夫から監禁と虐待を受けているという闇を抱えていたからか、嗣志にそれを必要以上に教えず近づかせ過ぎなかった。嗣志は毎日物足りなさを感じながら成長していた。厳威の来ない日――宵雪の室に花を飾る日は、いつもより長く宵雪と過ごせると、楽しみに思っていたものだ。
心の中心にいつもいるほど近く、実の家族ほど馴れ合わず。異性として愛せたのは、絶妙な距離感も理由の一つだったのかもしれない。
大人の世界に足を踏み入れると決意した夜、嗣志は宵雪の身の上を知った。そして嗣志の首環が如何にして外れたのかと、その時の状況を再現し宵雪の首環を外す計画があることも聞かされたのである。
その策は決して綺麗なものではない。そして嗣志の協力が不可欠である。今まで知らないうちに巻き込んでしまっていた。が、嗣志の首環を外したのは宵雪で、嗣志にはまだ何の非もない。いくらでも言い訳がたつ。今なら嗣志は降りることができる。それとも共犯者になる覚悟はあるか、自分のために堕ちてくれるか――。
嗣志は宵雪とともに禁忌に触れると決めた。
宵雪に前夫がいたことも、前夫との間に子がいたことも、今、別の夫がいて裏切ろうとしていることも全部知ってなお、宵雪への想いに歯止めをかけることをしなかった。
狼とは夫婦愛の強い獣である。一度
いつも字を呼んでくれる声が好きだった。
服を着るのが嫌いで、抱きしめられた時はひんやりした肌が、だんだんと温かくなるのが好きだった。
いつも微笑んでいるような下弦の双眸が好きだった。
凄い力を持ちながら怠惰で無知で謙虚で、試行錯誤に付き合ってくれるのが好きだった。
褒められ、頭を撫でられるのが情けなく思うようになったのはいつからであったか。
ただ心のままに動き、浅慮故にこの憂き目に陥った愚かさが憐れだった。
八方塞がりの逆境において、何百年もの時間をかけて計略を温めた強さに惚れた。
この期に及んでなお、憎いはずの男を憎み切れず、裏切る決意ができない彼女の優しさに好意を感じながらも嫉妬に苛まれた。
自分が宵雪を愛し、宵雪もまた自分を愛してくれているという確信があったから、嗣志は修羅の道に堕ちた。
嗣志が今までこの宮殿で育って来られたのは僥倖であった。
いくつかの理由がある。まず嗣志が子供だったことだ。子供は子供であって男ではない。
そして嗣志が厳威自身から宵雪に与えられたという事実があること。
宵雪が他の仙女とあまり交流せず、普段の挙動から不審を悟られなかったこと。
厳威が宵雪との逢瀬が終わり次第さっさと退去し、他の仙女と接触しなかったこと。
男の協力が必要な技術の研究施設であり、他の男の出入りがあったこと。定住する者は嗣志だけであったが、宵雪がここの長であり特別扱いされてもおかしいと思われなかったこと。
嗣志が自分が計略の片棒を担いでいることを知らず、堂々とここの住人として振る舞ったので誰も怪しまなかったこと。
隠すのが厳しくなる前に嗣志が他の仙女と交流を持ち、好感を持たれたのが、告げ口を防ぐ結果になったこと。
そして、他の仙女は首環の効果も嗣志が首環を嵌められていたことも知らない。子供が大人になるのは当たり前で、わざわざそんな自然なことを厳威に知らせる者などいなかったこと。
――我が師よ。俺は貴女のためならば、この身打ち砕かれようとも構わぬぞ。いかなる罪も背負う覚悟はできている。
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