第5話

 水面に映る自分の姿を見て嗣志は何度も繰り返した思考を反復する。背がずいぶんと伸びた。宵雪はまだ自分よりも低いからと笑い飛ばすが、嗣志はそろそろ誤魔化しきれぬと思っていた。

 室に活けるため小手毬こでまりを切る。地味な花であるが嗣志は嫌いではなかった。


 嗣志が花の世話から帰ると、まだ宵雪が戻っていなかった。昨夜は男が通って来る夜だった。いつもならこの時間は、男を見送ったあと自室で二度寝をしているはずであった。胸騒ぎを覚えながら、自作の術具の手入れをしていると、顔なじみの仙女が「宵雪がたかどのの二階から落ちた」と知らせてきた。宵雪の身体能力であればそれぐらい大した事ではないのだが、血相を変えて知らせる者があったという事は言外の事情があるのだろう。嗣志が楼に近づくことは固く禁じられていたが、姿を隠しながらでも見に行ってみようと考えた。長年、千試百回を重ね、肘を越えて二の腕まで覆うほど大きな戦籠手となった術具を持って。


 この結界は広い。外界を圧縮したような平地や山や川があり、その中心に城郭都市というにはあまりに生活寄りで、離宮というには規模の大きな『宮殿』がある。宮殿というからには貴人の拠点たる大きな宮城がある。有事の際は機能するのかもしれないが、今は誰もいない。

 楼は城の敷地内の、最も高台になったところにある。楼は何人か下働きの見習い仙女が管理をしており、宵雪と通ってくる男との逢瀬にのみ使われる。周囲は池があり樹花が植わり、豪華な造りになっている。宴会を催すのを想定されていたであろうことは推察できるが、嗣志の記憶の中では一度も開催されたことはない。

 城の外、門と堀を挟んで一般的な仙女達の住居がある。身分が高いほど立地の標高が高く城にも近い。

 宵雪と嗣志が普段起居している御殿は、城の奥の方、いわゆる後宮に相当する部分である。楼までは早足で十数分とかからない。


 嗣志の耳に聞こえて来たのは男の怒号であった。宵雪を責める声と攻撃を加えるような音。嗣志は飛び出したくなるのを抑えながら、気配を消し隠れながら接近する。


 宵雪はあまり男とのことを嗣志に話したがらない。だから、嗣志も来たるべき日の対策に必要な分しか聞きだしはしなかった。

 だが宵雪が、近ごろは体に跡を残して帰るようになっていたのである。傷や打ち身の痛みは月が上り回復するのを待つのも苦しく、温泉に浸かったり薬を用いたり……。嗣志が予定通りに動ける日が少なくなっていた。鍛錬が捗らないのは、宵雪の手当てに労力や時間がかかるばかりではない。心労によって集中力が著しく落ちていた。

 それで嗣志が抑えきれず聞きだしたところによると、今まで男は宵雪の機嫌を取ろうと躍起になっていたが、とうとうしびれを切らしたらしい。宵雪を酷く罵り暴力を振るっては、怒りが収まると一転して今まで以上に優しく振る舞うというのを、定期的に繰り返している。そしてその周期がどんどん短くなっているのだと――。


「(俺はどうすればよいか? 行ったところで見つかればすべて終わる。だが、体の傷は治っても心の傷は治らない。これ以上、我が師を傷つけられるのを見過ごして、俺は自分に恥じずにいられるだろうか)」

嗣志のそんな葛藤は、喉を毟りながら――首の金環が締まって――顔を赤黒く変色させた宵雪を見た瞬間吹っ飛んだ。宵雪は肌着を引っ掛ける程度にしか着衣がなく、髪も結っていない。素肌には暴力の跡が見えた。

「宵雪! 長年、儂がお前にどれだけ尽くしてやったと思っているのだ! これだけよくしてもらいながら感謝もできぬとは!」

 首環の巻き戻しは、死んだ者にまで有効かどうかはわからない。野太い男の罵声の中、嗣志は二十ハの光球を練り、宵雪の前に立ち首環の術式を起動している男の督脈の経穴を狙う。嗣志の術具は、初期型の『脳天への自動追尾』の術式を応用し、体表のすべての経絡を任意標的にできるように改良されていた。

「(俺の存在を隠しおおせたとしても、我が師が殺されては何の意味もない!)」

今の嗣志であればこの程度の攻撃であれば、ひと呼吸の間があれば難なくできる。拳大の薄青い光球を次々と発射すると、殺気を感じたのか、男は振り返って造作もなく光球を防ぎきる。そして男は曲者を見ると目をみはり額に青筋を走らせる。

 男――宵雪の夫であり、仙界の名将・厳威の目に映ったのは、髭もなく線も細く童形ではあるが冠礼を迎えていないのが不自然な程の年齢の、若い男――嗣志であった。

「宵雪! 裏切ったのか!」

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