第4話

 仙界の将・厳威ヤン・ウェイが下界に派遣されたのは数百年も前の事であった。


 なんでも、普通の人間達の世界である下界のとある小国が急激に力をつけ、版図が大きく変わったという。その王はもう老境にかかる年齢であるにかかわらず、せいぜい三十路ほどの青年にしか見えぬらしい。そして、人の身ではあり得ないような膂力を持ち、毒を喰らっても死なないのだと。やがて王には狐狸精フーリーチンが憑いており、超常の力はそのせいであるという噂が持ち上がった。そして仙界は「我々の同胞が下界に干渉したのではないか」と疑うに至ったのである。

 容疑者として名が挙がったのが楊宵雪ヤン・シャオシュエ。王母娘娘・楊回が可愛がって自らの姓を与えた千年狐狸精が、しばらく不在であるという。彼女は王母娘娘が人間である下界の王と蜜月を過ごしたという恋愛譚にたいそう憧れていたらしい。

「して、『しばらく』とはどのぐらいの期間でしょう」

「さあ? 何十年も経っていないと思うわよ」

半人半獣の女神は虎の脚を悩まし気に組み替えながらうそぶく。

「人間の王なら誰でもよいという娘ではないわ。宵雪を疑うのは短絡的ではなくて?」

「彼女の男選び云々ではなく、人との恋愛を禁忌と思っていないのが問題なのです」

宵雪は房中術に長けているという。つまり『想い人を強化する技』である。

 そして、容疑者が真犯人へと変わるのにさほど時間はかからなかった。なにせ、宵雪は自分のしていることが悪いことだとは露ほども思っていなかったのだから。女仙でありながら堂々と人間の国の後宮に住み、夫婦の間だから当然とまでに子まで成していた。仙界からの使者に夫との関係をさんざん惚気けたために、尋問の必要すらなかったという。

 かくしてすぐさま、楊宵雪の捕縛と、彼女に強化されたと思しき王と彼らの間にできた子の処分の令が出、その任に厳威が選ばれたのである。


 厳威率いる紙人形や陶器の兵と、人間の王が率いる人間の兵との合戦は、双方甚大な被害を出しながら一月ほどで終了した。

 もはや人の形をしていない燃えさしにすがって泣く宵雪に、厳威は心を奪われた。そのあざなの通り真っ白な肌や髪を煤と血と泥で汚し、豪華な衣装は襤褸ぼろと変じ肢体を隠す用もなさず、かんざしも歩揺もくつも失ったのは、子を身を呈して守っていたからであった。今も、溢れたはらわたを意に介さず、あらぬ方向に曲がった腕で夫の亡骸を抱き、夫も子ももう死んだから自分もどうでもよいとばかりに、敵である厳威を前に逃げようともしない。宵雪はことん愚かであったが美しかった。こんな情の深い女に愛されてみたいと思ってしまった。そして、こたびの任務達成の報酬に宵雪を妻に迎える許しを天帝に求めたのであった。


 宵雪は王母娘娘の説得もあって、己の罪を自覚し、夫と子は仙界としては殺すしかなかったと納得しているように見えた。仙界は下界に対して中立でなくてはならぬ。一国に肩入れして力を与えるのは重罪である。厳威は本来処刑されても文句は言えなかったはずの宵雪を助けてくれた。そう言い含められ、婚姻に同意したという知らせが届けられた。


 今思えば、初夜が決定的に拙かったのであろう。滞りなく婚礼が進みいざ床入りの段になって、宵雪が「夫の喪が明けるまでは他の男を受け入れることはできない」と言い出したのだ。新婦は罪人とは言え、正式な婚礼として進行してきたのである。仲人と新郎の面子がある。服喪の期間も、当世の常識で言えばすでに過ぎており、宵雪が主張する期間は、古礼に基づいた長すぎて現実的でないものである。今、そこまでする者は稀であった。そして婚礼とは、期を逃せば取りやめとなり、仕切り直しはないものである。結局、厳威は宵雪を無理矢理に抱いた。その時から、宵雪の中で厳威は『夫と子を殺し、未亡人になった自分に陵辱を加えた者』となってしまった。


 心を開かぬ妻を持て余した厳威は、宵雪の得手である房中術の研究所という名目で、彼女のために別宅をあてがう事にした。逃げられぬように首環をつけたのは、心配であったからかもしれないし、彼女を罪人として扱うという心情の現れだったのかもしれない。その首環に巻き戻しの術式を組み込んだのは、怪我や病から守るためであったかもしれないし、彼女の持つ他者強化の力を効率よく捧げさせるためであったかもしれない。

 解釈は各人の心次第で如何様にもできるものであったが、ただ起こった事実だけ見れば、宵雪は厳威に幽閉され、時々体を開く事を強要されていた、それだけであった。


 房中術というのはこのようなものである。

 一つ。男女双方から気を滲み出させ、和し、等分してそれぞれの体に戻すのが通常の場合である。和した気をどちらかが一方的に取ることもでき、それを、女が男から奪い取るのを『素女採戦の法』、その逆を『彭祖修練久戦の法』という。また、それらの手段には必ずしも性交を伴わない。

 二つ。滲み出る気の量は肉体的な快楽の程度によって上下する。男性の場合は冷静さ、女性の場合は快楽が大きいほど多くなる。

 三つ。得た相手の気が自分より大きければ、または素女採戦の法や彭祖修練久戦の法を使えば、相手の気が上乗せされることにより普段の自身の限界を超える量の気を保有することができる。上乗せされた気が自身の気と同化して保有限界量が伸びるか、他人のものとして消耗しまったら今までの限界量を超えては回復できないか――定着率は、お互いの精神的な繋がりの濃さによって上下する。


 厳威の気の量は宵雪をかなり上回っていた。

 宵雪の前夫が人ならざる力を持っていたのを羨み、彭祖修練久戦の法を用い宵雪から強化を受けようとした。だが、数百年間何度も何度も試みたにもかかわらず、気の最大量をさほど伸ばすことはできなかった。

 宵雪に快楽を与える事はできた。発情を促す術も、皮膚感覚を増大させる薬も、小手先の技術もあった。だが心の方はどうする事もできなかった。仙界が厳威の行いを放置したのは、厳威の成長芳しからず、仙界の勢力の均衡を転覆させる心配なしと見られていたからであった。


 厳威は惨めであった。宵雪を妻にしたのは愛されたかったからである。宵雪のもとに通って来るときは色々な贈り物を持参し、彼女の要求もすべて叶えてやっていた。宵雪は厳威からの贈り物など喜ばず、滅多に頼み事などしなかったが――宮殿の他の仙女との付き合いが煩わしいが寂しい。何か愛玩するための小さな獣を飼いたいと、珍しくねだることがあった。そこで厳威は、先日月華を得て仙界にやってきたばかりの、まだ人の形になれない弱い銀色の妖狼の仔を宵雪に与えた。躾ければよい番犬になるであろうと考えたのである。しかし狼は狐と相性がよくない。成長して宵雪や他の仙女達を噛む事がないようにと、宵雪のものと似た巻き戻しの術式を埋め込んだ首環をつけて――。

 狼を飼うようになってから、宵雪は幾分か機嫌がよいように見えるようになった。

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