第3話

 紅白の牡丹に水を与える。この大輪の花は華麗だが、重い花は支柱を必要とし、施肥や芽摘みといった世話を焼かねばならない。その面倒くささを嗣志シーズィは楽しみと捉えていた。

 先日の一件以降、幾人かの仙女と交流を持つようになり、宵雪シャオシュエの不得意な事を他の得意な仙女から習う事ができるようになった。嗣志の日常はとても充実していた。仙女達のほうも、宵雪の掌中の玉を自分達も構ってよいのだと、好意的に接してくれる者も少なくなかった。そしていつも気がつくと他の仙女と宵雪を比較し、宵雪のほうが優れていると……そう考えては、無礼な思考を頭から追いやっていた。

「(我が師は体が大きいようだ。九つもある尾が嵩張って、大きく見えるのだと思いきや、他の者よりも一尺ほども背が高いようだ)」

体格も、刀で削いだような華奢な者が半数以上を占めているが、宵雪の胸回り腰回りは極めて豊満であった。重そうな尻を支える背は真っすぐとして堂々と。彼女こそこの宮殿の主であり、身をかがめ小走りする必要がないからこそであるが。

「(我が師は美しいのだ。傾国の美姫……色香にて一国を滅ぼしたというが、真実そうなのであろう)」

嗣志は宵雪の美貌を誇らしく思うと同時に、その美貌こそ、彼女がここに囚われている原因であると、憐れにも思った。

 花の世話が終われば武術の鍛錬の時間である。兎にも角にも自分は鍛えねばならぬと嗣志は考えていた。術具作りの進捗は好調だったが、試したい事の実現には気の量が足りなかった。また、体内の気を把握出来ず先日のような無様を繰り返したくもなかった。その問題を解決するために、嗣志は肉体に目を向ける事にしたのである。


 まだ子供の体である嗣志の鍛錬は走り込みや水泳がほとんどで、教えてもらえた武術らしい動きは『馬歩站椿』、これのみである。体幹を鍛える体操のあと、腕を前に伸ばし中腰の姿勢のまま数分――のんびりと宵雪が起きてきた。殊勝にも自分でお茶を淹れ、嗣志の鍛錬を黙ってぼんやりと眺めている。やがて嗣志の体が限界を迎え構えをとくと、欠伸のようにお疲れ様と一声かけた。

「だんだん長くできようになってきたのね。偉いわ。そのうちわたくしより上手になってしまうのでしょう」

「我が師よ。貴女も武術を?」

「ええ。きっとあなたのと同じのをね」

んん、と伸びを一つ。宵雪は芝生に降りる。体を揺すり、静止。両頬を撫でるような腕の回転から始まったのは、套路とうろ――小架一路。寝間着からは凝脂の腿が付け根まで覗き、震脚の度に大きな乳房が激しく揺れたが、色香よりも練り上げられた気の密度に圧倒された。

「わたくしの覚えたのはこれだけ。功夫を積むために覚えたの。武術なんて、実戦で使う機会がなかったのよね。気の総量が多いものだから、何も考えずにぶつけていても、それで何とかなってきたのよ。あと、激しく動くとね、胸が痛いから」

「なるほど」

宵雪の体格では、肘打ちはに大きすぎる乳房が、背面打ちには地面に擦るほどの長く太い九尾が邪魔であろう。効率など考えなくてもよいほどの大量の気も、そうなのであろう。他人の気の量を測る術はないが、怪我をしたときや病のとき、先日のように気前よく大量の気を分けてくれ、少しも疲れた様子を見せないのだから。一方、嗣志の尾は脛ぐらいの長さで一本のみ。気の量は平均がわからないが、宵雪に比べればさほどでもないのであろう。元々、狐というものは仙人としての資質に優れた種族である。生まれからして差があるのかもしれない。

「あなたにはわたくしよりも強くなってもらわないとね」

「俺にできるのでしょうか」

「大丈夫よ。わたくしがちゃんと教えてあげますからね」

くしゃくしゃと頭を撫でられ、ああ、俺は子供なのだと、嗣志は悲しく思った。


 嗣志が汗を流したあと、朝食を作った。献立は宵雪が好きな卵の粥である。鳥の肋と韮と、あるもので簡単に作った。前身が人である仙人は、生臭や五穀を断つ修行の末に、という者が多い。が、日精月華を得た獣である二人には関係がない。大牢とは言わぬまでも、獣の食性の自然のままにというのが宵雪の好みであった。毛氈の上には粥とともに、あけびと葡萄、柘榴が籠に盛られている。常春のこの宮殿では得られぬ品であり、宵雪の好物でもある。それらの出処を思えば、嗣志は食う気がしないのだった。


 食事の後は、宵雪が床に寝そべり読書をしている横で術具作りだ。質のよい素材は宵雪の持ち物を融通してもらえた。また、以前のものは一つの回路を枝分かれさせて、複雑に切り替えていたが、新しいものは複数の回路を用意し切り替えを少なくした。これで過剰に気を食うことはなくなった。そして、実験の結果、『光球の速度は小さいほど速い』ということがわかった。しかし、小さな光球は威力が低い。威力と速度を両立させるにはどうすればよいか。あまり速度に意味のなかった形状変化の回路のかわりに、気の圧縮と、光球そのものの気とは別に推進力のための気を付与する回路を組み込もうと嗣志は考えていた。

「(やはり必要な気の量が大きすぎて実験ができない。我が師に試してもらえば可能だろうが、自分の手で行いたいものだ)」

この数日、出来た図面と睨み合いながら、どうにかして気を節約できないかと思案していたが、どうしても思いつかない。

「(わかってはいたが、鍛えて俺が強くなる方が早そうだ)」

図面を書き込んでいた板の表面を削ろうとしたのをやめ、片付けて走り込みにでも行こうと考えた。

 その時、一人の仙女が駆け込んで来た。嗣志が用件を聞いたところ、喧嘩が起こったので、ここの長である宵雪に仲裁を頼みたいということであった。

「嗣志、上着をとって頂戴」

「我が師よ。俺もお供いたします」

「女同士の喧嘩になんて興味を持つ事ないわよ。でも、何があるかわからないわね……武器を持ってついて来てくれるかしら」

非力な女とは言えぬ、超常の力を持った者の喧嘩である。何が起こらないとも限らない。


 宵雪と嗣志が、呼びに来た仙女とともに現場に行くと辺りは火の海であった。どうやら、当事者の一人が、宥めようとする第三者を厭い、火を放って強引に距離を取らせたという。地面に輪のように広がった火の中心に、二人の仙女がいるらしい。

「真剣なお話中のようだけど、燻されてはただでは済まないわ。嗣志、できるわね?」

「はい、我が師よ」

嗣志は改良された手甲に気を通す。小さな光球が三つ現れ、火のついた下生えごと地面を浅く広く抉った。何度か繰り返し、火の輪に人が通れる程の切れ目をいれることに成功した。宵雪は自分と嗣志の体の周囲に守りの結界を張る。

 春の水気の多い草木は多量の煙を発しながら燃えていた。視界は至極悪い。匂いと言い争う声を頼りに仙女を探す。

 嗣志に向かって鳥を象った炎の塊が飛んでくる。咄嗟に光球を放って撃ち落とす。どうやらあちらの方が先にこちらを見つけたようだ。数度撃ち合い、嗣志が威嚇射撃で退散しないのを悟ったのか、煙の奥に一回り大きな鳥が高く舞い上がった。

「(避ければ師に当たる)」

大きな光球は遅い、というのは、自身が実験で確かめた事実だ。あの鳥もそうであるならば……。

 何かに使えるかもしれぬと残していた、形状変化の術式を起動させる。薄い青色の光球は回転しながら扁平に形を変え、目前まで迫った鳥のくちばしを巻き込みながら円形の盾となった。鳥の肩が翼が、勢いのままに盾に激突し潰れた。嗣志は完全に鳥が消えたのを確認し発射の術式を中断。大きな光球を生成したことでふらつきを覚えた。

「嗣志! 攻撃されたのね?」

「はい。あちらは頭に血が上っているようです」

先程の攻撃で仙女の位置はわかった。嗣志は三つずつ光球を生成し仙女を狙いながら前進する。防御は何度も使えない。攻撃させる隙を与えてはならない。

 間もなく仙女の姿が見える。小柄で大人しそうな、愛らしい女だった。嗣志の姿を見て頭を手で守りぎゅっと目を瞑る。

「嗣志、退きなさい」

後ろから宵雪が術具を放つ。乳白色の玉で出来た鍼が、空中で幾本にも分裂し仙女の足元――炎という強烈な光源で潰れながらもぼんやりと、かろうじて両足の間にあった影に刺さった。鍼は影を縫い止め仙女の身動きを封じると同時に展開している術式も停止させる。周囲の炎はたちどころに消え、もう一人の仙女がすぐそばで倒れているのが見えた。

「よくやったわね嗣志。その娘はわたくしが手当てするわ。あなたは帰りなさい」

そう言って宵雪は、驚いたような表情を見せる。視線の先は嗣志の顔で……嗣志は、自分が何か表情に出していたのだと気づいた。

「……はい。我が師よ」


 嗣志は一人、自室の庭先で套路を行っていた。小架一路。誰にも教わっておらず許可もされていない。宵雪が見せ、他の仙女もやっていたから、動きは見て覚えていた。憧憬の思いがあったからこそ、殊更に完璧に記憶に刻まれていた。

「教えてあげるわ嗣志。自己流でやって変な癖がついたら、あなたのためにならないわ」

いつの間にか帰ってきていたらしい宵雪が、門のほうから声をかけた。

「あなた、最近焦りすぎでなくて?どうしてそう鍛えようとするのかしら」

見透かされていたかと、嗣志はかぶりを振った。宵雪は師であると同時に、養いであっても母なのだ。

「貴女の力になりたいのです。俺は……子供として守られている自分が不甲斐ないのです」

宵雪が近づいて――頭を撫でられるかと思ったが、ただ目線を合わせるだけで。

「そうだったのね。あなた、見た目は人間の子供だけど。覚えているかは別として、獣であった頃は何十年も生きていたはずだし……ここは人の世界と比べて、ずうっと時間の流れがゆっくりだから。あなたの心は、いつの間にか大人になっていたのね」

宵雪は嗣志の手を握る。

「覚えておいてね。わたくし、あなたが思っている以上にあなたを頼りにしているの。それとね……わたくしが、まだあなたを大人の世界に引きずり込む覚悟ができていないの。子供の時代は、過ぎ去れば二度と戻っては来ないのだから」

「我が師よ。俺は、貴女が苦悩しているのを知りながら、子供の特権を享受する気はありません」

宵雪は目頭を押さえ、額を軽く拭うと、嗣志の顔に自分の顔を近づけた。嗣志は頬ずりされるのだと思ったが、意外にもされたのは口付けだった。

「……もう少し時間を頂戴。嗣志、あなたのこと、愛していてよ」

 その夜はとても静かだった。何もかもが自分を通り抜けて行くような、心が体から離れたような……そんな夜だった。

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