1-2
このふざけた呪いにかかってしまってから十年。アンリエットは、いまだかつてなく危険な状況に置かれていた。
寝台の下に隠れながらも、尻尾を隠すのを忘れるという大失態を犯した挙句、初対面の男に首根っこを掴まれ、そのまま馬車に連れ込まれてしまったのである。
もちろん抵抗はした。
『ぎにゃー! にゃー! ふぎゃー!』
(
しかし男はその手に痛々しいミミズ
馬車に乗り込んだ男は、窓をきっちりと閉め馬車が出発するのを待って彼女から手を離した。ガラガラという車輪の音を聞きながら、逃げ道を断たれたことを知る。
(いいえ、走ってる馬車からだって逃げてみせるわ)
そう自らを
「ふー!」
(だいたいなんなのよこの男)
アンリエットを掴んでいた男の手にはいくつかの傷が走り血が
「ずいぶんと
「にゃー!」
(
「まぁそんなに
(この男いったいなんなの?)
にこにこと
熊をも倒す野獣将軍じゃなかったのか。まさか猫の正体がオードラン伯爵
「うん。かなりの美猫だ。俺の好みど真ん中」
それともただの変態級の猫好きか。
どちらにせよ、一刻も早くこの場から脱出しなくてはならない。
(どれくらい時間が経った? 十分? ううん、二十分かしら)
猫になっても時間が経てば人間に戻るが、困るのは、人間に戻るまでの時間が一定ではないことだった。
最短なら三十分ほどで戻ることもあれば、半日猫のままでいることもある。さっき猫になってからいったいどれくらいの時間が経ったのかがわからない。最悪なのは、この場で元の姿に戻ってしまうことだ。オードラン家の令嬢にわけのわからない呪いがかかっていることが明らかになってしまうし、何より人間に戻った彼女は
そう、
今は猫なのだから仕方がない。しかし人間の貴族令嬢が家族でもない相手の前ですべてをさらけ出すのは仕方がないで済ませられる問題ではなかった。
(そうだ、気絶させればいいのよ)
アンリエットは名案を思いついた。
男を油断させて、人間に戻った瞬間に顎に拳をぶち込んで
(不意をつくなら、男の
膝に抱いていた猫が
しかしアンリエットは、「何か
(……できたら、あの男に
この野獣将軍という男はいかにも
(でも、距離をとっていたら不意をつけない。肉を切らせて骨を
アンリエットは意を決して野獣将軍の方へ歩み寄った。彼女が自ら膝の上に乗ってきたことに「おっ」と顔を
夜会の行われたブノワ公爵夫人の屋敷は
野獣将軍の屋敷が王都の城壁の中にあるのなら、そこにたどり着くのに三十分以上はかかるだろう。このままじっと耐えていれば、機会はおのずとやってくるはずだ。
(男と密室で二人きりなんて
アンリエットは冷静に考えたが、それが希望的観測にすぎないことはすぐに証明された。
おもむろにぐいと身体が引っ張られる。
アンリエットの
「ふむ。
(!!)
アンリエットはかっとした。とっさに男の顔面を引っ掻こうと爪を出す。しかしその爪が男に届くことはなかった。
猫の小さな心臓が、どくんと一度大きく鼓動したのだ。
(来た!)
耳と尻尾がぴんと伸びて、再び世界が逆転するのを感じる。いつもの息苦しさと、燃えるような熱さ。
(この、変態将軍!!)
アンリエット=オードランの
それを、どさりと男が受け止めた。
「……」
呆然とする彼女の顔を、野獣将軍が
「おいおいどういうことだ。猫が裸の女になったぞ」
「……っっ!」
そう考えてのことであったが、野獣将軍の方が
「いたい!」
飛びのくようにして男と距離をとったアンリエットは、持っていた布を身体に巻きつけ、燃えるような瞳で男を
【画像】
「そこをどきなさい変態!」
「ははは
(最悪だわ!!)
鼻がひりひりと痛む。鼻血は出ていないだろうか。
「猫が人間になったのか? それとも人間が猫になってたのか?」
野獣将軍は眉を上げ、じろじろとアンリエットを観察する。アンリエットは布を両手で強く持ち直した。金の首飾りがそこにあることを無意識に確認する。
いかんせん馬車の中なので、長く立っているにはきつい状況であった。頭が
「
「なるほど、見た目を気にするっていうなら人間が猫になってたんだな。だがどういうことだ。あんた
「そうよ。あんたなんか仲間を呼んで頭から食ってやるんだから」
アンリエットはしれっと嘘をついた。
自分がオードラン伯爵令嬢だとばれるくらいならば、魔物だと思われた方が好都合だ。
「へぇ」
しかし男は、目の前にいるのが人知を
「なら、魔術師か?」
男が自らの喉の下あたりをトントンと人差し指で
「それは魔術
「見たの!」
アンリエットはかっと顔を赤くして布をさらに引き上げた。
「見えたんだ。
男の言う通り、アンリエットの
「猫になる魔術か? 何が目的なんだ。アンリエット=オードラン」
名前を呼ばれ、彼女は愕然とした。
(最悪だわ)
アンリエットを知らないような顔をしていたのは演技だったというわけか。
アンリエットは、自分の名前がある種の話題性でもって社交界で噂されているのを知っていた。突然社交界に現れた、
一度の瞬きの後、男が
アンリエットは口を引き結んで一度息を止めた。そうしなくては、
「ブノワ公爵夫人の屋敷に、猫の姿で
「不可抗力よ」
アンリエットはすうと息を吸うと、男の言葉を
「あなたが私の胸の魔術陣を見たのと同じ、不可抗力です。これは……なんというか意図せずして猫になってしまう魔術なのよ。さっきも思わぬところで猫になってしまったから、人間に戻るのを待っているところでした。誰かを害するつもりはありません」
わけのわからない
「……」
男はアンリエットの言葉の
野獣将軍の青と緑の混ざった瞳はこちらのすべてを見抜いてしまいそうであったが、アンリエットは目を
(何も後ろ暗く思うことなどないのだもの)
それならば、どうしてこの男を恐れる必要があるだろう。彼女が夜会に参加していた目的は人脈の
「……座ったらどうだ」
少し威圧感を弱めた男の提案に、アンリエットは
「まず上着を貸してちょうだい」
この布一枚ではあまりに心もとない。
「自分に利益がないことはしない主義なんだ」
「さすが野獣将軍と呼ばれるだけあるのね。
「エヴラール=アゼマだ。エヴラールと呼んでくれて構わない。ところでアンリエット、やっぱり座った方がいい」
「私を名前で呼ぶことを許した覚えはないのだけれど」
「少し揺れるぞ」
言うが早いか、ガタン! と馬車が揺れた。立っていたアンリエットは天井にゴッと頭をぶつけて座席に座り込む。
「……!」
「だから言ったのに」
ずきずきと痛む頭頂部を右手で押さえながらも、身体を隠している布から手を離さなかったのは女としての
「俺の屋敷についたら冷やしてやろう」
「あなたの屋敷ですって?
アンリエットは頭の痛みを忘れて言った。
自宅に連れ込まれなどしたら、何をされるかわからないではないか。これは本格的に、
「意図せずして猫になってしまう魔術、ね。そんな魔術がかかっていたらさぞ不便だろう」
男が鼻で笑う。アンリエットは腹が立った。
「馬鹿にしているの?」
「社交界では新参者のアンリエット=オードラン。何が目的で王都にやってきたんだ? お前自身が魔術師なのか? どこで学んだ?」
(なんて馬鹿な男なの。私がいったい何を
アンリエットは
『アンリエット』
こういう時に思い浮かべるのは、いつだって眼鏡をかけた幼馴染だ。
カロン=デマルシェリエ。
あの子が怒ったところなど、数回しか見たことがない。そして彼は怒るアンリエットに対していつも、『アンリエットは優しいね』と
「百三十二人」
アンリエットは低く答えた。
「あ?」
「……百三十二人よ。ここ数年のソニボスでの戦争で、アウループに流れてきた難民や孤児の数。彼らに最低限の衣食住や仕事を
ぐっと顎を上げて、まっすぐに男を見る。
目を逸らしてはいけない。負けるわけにはいかないのだ。
オードラン基金は、アウループの最後の希望だ。
「あなたが私にどんな疑いをかけているのか知らないけれど、私には余計なことに関わっている
「……」
(ああ。まただわ)
アンリエットは思った。
こちらを
まるで、アウループの森にいるフクロウのようだ。森の
夜の森の
「あんたが資産付きの
アンリエットは瞬きをした。
我ながらどうかしている。こんな男にあの美しい森の王の
「アウループ領主、オードラン伯爵令嬢の名は十分な
男はまるで、当然のことのようにそう言った。
結婚を、政略的なものとしてしか考えていない顔だ。女を道具のように見ている。しかしアンリエットは
今の貴族社会ではこれが普通だ。一代で地位を
戦地派遣でやっと貴族位を得たような男がそういった上流階級らしい結婚観を持っていることに
アンリエットは息を吐いた。
「あのね。頭に血が上ったら猫になる女を、誰が妻にするっていうの?」
アンリエットは、自分が両親よりも現実的で強靭であることを自覚していた。必要ならば、
けれどこの胸の魔術陣がそれを許さないのだ。残念ながら。
「結婚なんてもう望んでいないわ。だからそれ以外の方法で、私がどうにかしなきゃいけないの。さっさと屋敷に帰してちょうだい。裸の女性を前に上着も貸せないような野獣と二人無駄に過ごす時間なんて、私にはないのよ」
そう言うと、野獣将軍は少し驚いたように目を丸くした。
これは、初めて見る顔だった。
猫のアンリエットに見せた子供のような顔とも
男は何か思案するように右手で口元を覆うと、やがておもむろに上着を
「少し意地悪がすぎたな。申し訳ない」
もはや、息が詰まるような威圧感は
彼女は男をじぃと睨んだ。
「なんだよ。上着がほしかったんだろう?」
「見返りに何か要求するつもり?」
警戒心たっぷりに問うと、男は
「はっはっは!
(本当かしら? 疑わしいわ)
そうは思っても、上着を貸してもらえるのはありがたい。布一枚ではどうにも心もとないのだ。
「……ありがとう」
アンリエットは男から上着を受け取った。
(……)
当たり前のことだがぶかぶかだ。布がずり落ちないように胸元できっちりと結ぶと、上着のボタンを留めて袖をまくる。
ちぐはぐな格好だが、全裸よりもずっといい。アンリエットはようやく息をついた。
「そんな不便な魔術を自分の意志で持っているはずがあるまい。どういう経緯だ?」
男は高く脚を組んだままクッションに
「それより、屋敷に帰してちょうだい」
「解けないのか?」
「自分が紳士だと言うなら女性の事情に立ち入ってこないでくださる?」
アンリエットはにっこりと微笑んだ。しかし男はその笑顔に見惚れることもなく
「あのなぁ、オードラン家の伯爵令嬢が猫人間だって噂を社交界に流してもいいんだぞ?」
「
すぐに笑顔を引っ込めて
「あんた、怒った方が美人だな」
(この男、なんだかやりにくいわ)
何を考えているのかわからないところもそうだが、どうにも、近所に暮らしていた男たちとも社交界の男たちとも違うのだ。
「……事故よ。幼い頃に、知り合いの魔術師が作っていた魔術に誤って
「魔術事故か。いつ
「十年前です。あとは
「よし、俺が協会に
アンリエットは眉を上げた。
「余計なことしないで」
「親切と言ってくれ」
「その亡くなった魔術師の
「ほう。そのあんたの友人はどこに住んでるんだ? 王都か? 名前は?」
「どうしてそこまであなたに話さないといけないの?」
アンリエットは
「関係ないでしょう?」
「確かに、ないな。だが興味がある。俺好みの猫に変身する女の事情を聞くのは、いい暇潰しになりそうだ。予定外に時間が空いてしまったしな」
「公爵夫人に振られたの?」
男の言葉の意味をすぐに察して、アンリエットは
そういえば、この男はブノワ公爵夫人の
男はアンリエットの
「振られたわけではない。新しもの好きの公爵夫人が別の新しい
「つまり、振られたのでしょう?」
「振られたんじゃない」
男は再度言った。なんだかいい気味である。アンリエットはさらにからかおうとしたが、相手は女に主導権を握らせるような男ではなかったのだった。
「協会に話を通したくない事情というと……その魔術をかけた魔術師というのは、
不意打ちのように切っ先を喉元に突きつけられ、アンリエットは目つきを変えた。
その反応を見て男がにやりと笑う。
「図星か?」
(こいつ──)
魔術師という存在は、大きく二種類に分けることができる。
協会に認可された協会魔術師か、そうでない魔術師か、だ。
魔術師協会は、魔術師の
固有の領土と『
協会は、彼らに属しないいわゆる非認可の魔術師に関してもその管理責任は協会にあるとして、非認可の魔術師に対していくつかのことを禁止している。その禁止事項の一つが、『人体に対する半永久的魔術の行使』だ。
それがたとえ、魔術師本人が意図していなかった事故だったとしても、だ。
「解き方のわからない魔術っていうのはつまり、半永久的な魔術ということだろう」
確信犯的な男の言葉に、心臓の奥の鍵のかかった箱ががたりと一度揺れる。
怒りはとうに振り切れているのに、今ここで
「──余計な口出しをしないで。あなたの
アンリエットは相手を射貫くような
猫はその気になれば人の肉を噛みちぎることだってできるどう
「……なるほど、面白い」
にやりと笑うその顔がこちらを皮肉ったものなのかどうか判断する前に、異変は起きた。
最初の変化は、男の顔だ。
男はまるで普通では聞こえない音を聞きつけたかのようにぴくりと眉を上げて、ぴったりと閉じられた馬車の窓に目を向けた。
(なに?)
アンリエットが口を開こうとしたのを、人差し指を立てて制する。男の全神経が、馬車の外に注がれているのがわかった。
もしこの時、彼女が猫であったなら……また違う行動ができたであろう。
猫となったアンリエットの感覚の
馬車が緩やかに速度を落としやがて止まる。
外で誰かが殴られるような音と声が聞こえてからやっと、アンリエットはこれは異常な事態なのだと理解した。
「下がっていろ」
小さな声で野獣将軍にそう言われ、狭い馬車の中で最も扉に遠い場所に身を寄せる。直後にガタと音がして馬車の扉が向こうから開かれたが、開けた男の顔をアンリエットはまともに見られなかった。
野獣将軍が、その長い脚を相手の顔にめり込ませたからだ。
「ぶぐっ!」
という変な声を上げて扉を開けた人間が背中から倒れる。野獣将軍は
「俺を仕留めるのに、たった三人で来たのか?」
馬車の中からでは顔は見えなかったが、その
「いきなり一人減ったが、どうするつもりだ?」
(信じられない。この状況で、相手を挑発するなんて)
正気の
アンリエットのいる場所からでは、
残った二人は共に黒い布で顔を隠していて、闇に溶ける黒ずくめの格好をしていた。そして手には
一方で、野獣将軍は手ぶらであった。馬車を背に二人の武器を持った男と相対している。
(軍人のくせに、どうして
ブノワ公爵夫人が許さなかったのだろう。あるいは、帯剣など必要ないという自信の表れなのか。そのどちらも、なのかもしれなかった。
さわさわと
まだ王都までは遠そうだ。声を上げて誰かが助けに来てくれる可能性は低いだろう。
「我々は、
襲撃者の一人が静かに言う。
「持ち物をすべて渡せ」
(……
とてもそうは見えない。盗賊が襲撃した相手を『貴殿』なんて言い方するだろうか。
同じことを野獣将軍も思ったのか、ふんと鼻を鳴らして言った。
「通常業務じゃない仕事を
アンリエットは、一瞬野獣将軍が消えたかと思ったが、そうではなかった。襲撃者たちと一定の距離を保っていたはずの野獣将軍は瞬きの間に距離を詰め、襲撃者の一人に回し蹴りを食らわせたのだ。
黒ずくめの男はかろうじて腕で顔面への
倒れた男の短剣をいつの間にか
(信じられない)
その大柄な身体からは想像できない
野獣将軍は、まるで
(ううう。心臓に悪いわ……!)
この時アンリエットは、扉の向こうの状況に気を取られて、すぐ背後の窓が静かに開いたのに気づかなかった。次の瞬間には髪をぐいと引っ張られ、
「っ!」
「はいはーい! 注目注目ー! エヴラール様こっち見てください。この女性がどうなってもいいんですかー?」
髪が抜けそうな力で引っ張られ、無防備になった喉元にひたりと冷たいものが押し当てられている。とっさに喉元に回る腕を両手で掴んだが、力を入れてもびくともしない。痛みを我慢しながら視線を向けると、自分を捕らえているのは他の襲撃者と違い
頬が赤く腫れて口から血が出ている。目が細く、笑顔にも見える表情でアンリエットに顔を寄せ小さな声で言った。
「大人しくしてないと殺しちゃうよ」
「ドニ、お前……」
地面に打ち倒した襲撃者に今まさにとどめの
「残念だ。使える
(御者ですって!?)
それはつまり、この馬車の御者ということだろうか。
「このために、俺に
「あはは。そうですねー。可能なら、今後もエヴラール様の御者でいるつもりでした。けれど思いの外、他の
「それは残念だったな」
無関係を装うために殴られた? 男の顔の
(ああなるほどそういうことね。わかった
と一人頭の中で
「ところでエヴラール様。この女性は、いつ馬車にお乗せになったんですか? もー。いつの間にか知らない人が馬車にいるからびっくりしちゃいましたよー」
ドニと呼ばれた御者はじろじろとアンリエットの顔を覗き込んで聞いてきた。
当然の疑問というべきだろう。御者は、人間のアンリエットが馬車に乗り込んだところなど見ていないのだ。
「そいつは俺が連れ込んだ猫だ」
(この変態将軍!)
しれっと秘密を
伯爵令嬢が猫に変わるだなんて、社交界に知れたらどうなるだろう。異分子を
一瞬で最悪の想像をしたアンリエットであったが、御者はあははと声を上げて笑った。
「はぁ? 猫が人間になるわけないじゃないですか。何言っちゃってるんですか! もうエヴラール様ってばお茶目だな!」
(変態将軍に人徳がなくてよかった!)
これは野獣将軍の日頃の行いに感謝である。しかしアンリエットは、直後にさぁと血の気を引かせることとなった。
「えーとエヴラール様。一応言っておきますけどね! 一応! オレが手を横に引けば、彼女は馬車の中を血に染めて死にますよ」
あまりにあっけらかんとした御者の言葉に、自分が命の危機にあるということを自覚するのに少し時間がかかった。
「殺すために来たんじゃないって言わなかったか?」
野獣将軍は眉を上げる。
「あーそれねそれ! うーんそれがエヴラール様以外の人間の生命は保証の
「なんだそりゃ。……仕方ねぇなぁ」
アンリエットはぎょっとした。野獣将軍が足元の襲撃者の腹をドガッ! と思い切り踏みつけたからだ。
「っ! げほっ」
思わぬ攻撃を受けた襲撃者が身体を折り曲げて
同時に、アンリエットの首元の刃が少し食い込んだのがわかった。ドニと呼ばれた御者が警戒している。けれど野獣将軍はそれ以上反撃することなく、持っていた短剣を放り投げて両手を上げたのだった。
「服は脱がせてくれるなよ。男相手に興奮する
そう言って、野獣将軍はにやりと笑った。
アンリエットは小さく息を吸う。
(本当に、何を考えているのよ)
「もー。降参するんならわざわざ痛めつけないでやってくださいよ。意地が悪いなぁ。じゃああんた、エヴラール様を
御者が命じると、襲撃者が蹴られた腹を押さえながら立ち上がり、野獣将軍の背後に立つ。すると野獣将軍は大人しくその場に膝をついた。
アンリエットがいなければ、男が膝をつくことはなかっただろう。武器を持たず相手が三人いても彼は
(私のせいで危機に
自慢ではないが、貴族令嬢にしては度胸はある方だと自負しているアンリエットである。
彼女は御者の腕を掴んだまま、その腕にぶら下がるようにして一度両脚を曲げると、座面を思い切り蹴った。
後頭部がごっ! と不意をつかれた御者の顔にぶつかり、勢い余って馬車から身体が飛び出してしまう。
「きゃっ!」
引っかかるものもなくずるりと窓から
(っったぁ……!)
正常な感覚を取り戻す前にぐいと胸ぐらを掴まれ引き起こされる。
暗い視界の中で、馬車の灯りに照らされた御者の顔が浮かんだ。
細い目からうっすらと覗く瞳にはまるで
「小賢しい
独り言のような言葉からは、無感情な殺意が感じられた。
こんな視線を向けられるのは生まれて初めてだ。唇が
それでも諦めるわけにはいかなかった。
(死なないわ。私は、こんなところで)
そう強く思う。
死んでたまるものか。まだまだ自分には、やることがあるのだ。
アンリエットは
「っ!」
ただ
その時、
ダン!
という大きな音がして馬車が揺れた。
見上げたアンリエットの視線の先に、半月を背にした大男の
その男は高く
背後に着地したのだとわかったのは、後ろから伸びた腕のせいだ。大きな影は、今まさにアンリエットの上に振り下ろされようとしていた刃を持つ手を掴み、反対の腕で御者の顔を殴りつけた。
まさに電光石火であったが、いかんせん
(信じられない。……馬車を乗り越えてくるなんて)
暗転する意識の中で、野獣将軍が熊を素手で倒したという話は本当に違いない、と確信したアンリエットなのであった。
美女たまに野獣 ときどき行方不明の魔術師 山咲黒/ビーズログ文庫 @bslog
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