第9話:夢で終わらせるために
はっ、と霞子は瞼を開いた。
頭のなかの靄が晴れて、目の前が鮮やかに映る。
後頭部にはじゃりっとした枕の感触。背中は柔らかい布団で、体を包んでいるのは、暖かい毛布。
視界には黄色に輝く灯りが映る。
見慣れた天井、かすかに香るお茶の香り。人の動く衣擦れの音。
この音は、一緒にいてくれる従者のものだ。そう気づくとほっとした。
霞子はそっと上半身を起こす。冷たい空気が頬をなでた。
縁側から、お気に入りのお庭が伺えた。真っ暗闇だった。今は夜のようだった。
「霞子さん?」
聞き慣れた声がした。
霞子はゆっくりとそちらを向く。
従者のジョーだ。さらさらの黄金の髪と緑眼麗しき美青年。
霞子の故郷ではとても珍しい色あわせだが、この和風情緒あふれる屋敷と霞子の部屋になじんでいる。
穏やかに微笑むジョー。その手には漆塗りの盆と、入れ立ての茶が乗せられている。
「あ……ジョー」
「まだお目覚めには早いですよ。いつもは決まった時間の朝にきちんとお目覚めになるのに、珍しいですね」
「うん。なんだか、夢を見ていたような気がするんだ」
「夢、ですか」
どうぞ、とジョーは霞子に茶を渡す。
受け取ったお茶をちびちびすすりながら、霞子はさっきまで見ていた夢を思い出そうとしていた。
「うん、なんかね……。……」
さっきまではまるで現実のように五感すべてで味わっていたはずなのに。
どんな夢であったか、目を覚ます直前までずっと頭の中では覚えていた。それは間違いない。
ところが、夢から現実へ帰ってきたとたん、霞子は夢の記憶を失っていく。
たのしい夢だったのか、こわい夢だったのか、かなしい夢だったのか、わけのわからない夢だったのか。
寒かったのか暑かったのか、歩いていたのか逃げていたのか、水の中か空の上でのできごとなのか。
虫がいたのか鳥がいたのか。図鑑でしか見たことのない生物がいたのはおぼろげながらにいまだ覚えている。だが次に呼吸したらそれもきれいに消えていきそうだった。
忘れてはいけない夢だった?
なんだか大切なことを忘れてしまいかけている気がする。霞子の心臓の鼓動が少し早くなる。
夢の中では、ひとりではなかったように思える。
ジョーが隣にいたわけではない。きっと知らない人だった。
でもなんだか安心した。一緒にいてくれて、とても心が穏やかであれたのに。
危ない目に遭った気がする。
だけどその誰かが、いつも助けてくれていた。そんな夢だった。
鈍くさい自分のために、手をつないでいてくれた。
それだけじゃない。離れないように、はぐれないように、迷わないように。
その人は、霞子と離れないために、何かを施してくれていた。
それは何だったっけ? なにをしてもらったんだっけ?
忘れちゃいけないことさえも忘れてしまいそうだった。
体のなかに残っている記憶は、もう霧になってぱっと散る寸前だ。
思い出さなければ、忘れないように記憶を引き出さなければ。
そう心がはやればはやるほど、夢は消えていく。
「……どんな夢だったんだろ」
霞子の夢は、あとかたもなく散った。
「よくあることですよ。夢は忘れるために存在するんです」
「……そっか」
霞子は茶を飲んだ。
ゆっくりと時間をかけて茶を飲み干すと、再び眠気が漂ってきた。
瞼が重く体がだるい。体を起こすのもおっくうになってきた。
「……あれ?」
霞子は、胸元にあるはずのものがなくなっていることに気づいた。
「どうしました、霞子さん?」
「おまもりが」
肌身離さず持っているよういいつけられていたのに、そしてそのいいつけをずっと守っていたはずだったのに。
眠気が一瞬だけ吹き飛ぶ。
「どうしよう、お守りが」
「落ち着いてください。大丈夫ですよ。ほら」
ジョーは優しくなだめるように、霞子に小さな巾着を渡した。
霞子はそれを受け取って中身を確認する。
お守りが中に入っていた。部屋の灯りの光に反射して、きらめく宝玉がそこにある。少しだけ傷がついていたが、間違いなく霞子のお守りだった。
「どこにあったの?」
「お部屋の隅っこにありました。きっと霞子さんの寝相がすごくて、投げ飛ばしてしまったんですよ」
「え、わたしそんなに寝相わるかった……? でも起きたときはお布団しっかりかぶってたけど……」
「あまりの寝相のひどさに、私がなおしました」
柔和な微笑を絶やさず、ジョーは答えた。
「さあ、無事お守りも戻ったことですし、お休みしましょう」
ジョーが霞子を布団に戻してくれる。
霞子は横になり、再び天井を見上げる。
おもむろに自分の両手を天井の灯りにかざす。
右手首に、蝶結びでまとめられた、赤い糸が巻かれているような、そんな錯覚に襲われた。
(…………糸?)
だけれどそれは結局目の錯覚でしかなく。
霞子は、行儀よく手を引っ込めた。
ジョーが布団を霞子にかける。
「ジョー」
「なんですか?」
「眠るまで、隣にいてくれる?」
「ええ、もちろん」
さあ、とジョーが霞子の前髪をなでる。
ジョーの暖かい指先が触れると、さっきまでの焦燥や緊張はゆるんでいく。
体がぽかぽかと暖かくなり、まどろみに漂う。
「ーーーー」
霞子はおぼろげに何かをつぶやいた。
霞子には、自分にさえ、なにを言ったのかわからなかった。
そして口を閉じ、霞子は再び眠りに沈んだ。
ーー。
ーーーー。
霞子が静かに寝息を立てて、わずかに胸を上下しているのを確認したジョーは、そっと立ち上がって襖をあけた。
霞子の寝室のすぐ前で控えていたのは、ジョーの待ち人だった。
「お待ちしておりました」
妖艶に微笑み、ジョーはその者を通す。
「霞子さんは寝たばかりなので、くれぐれもお静かに」
「だったら、別室に通してくれてもよかったんだけど」
「あなたがこの部屋をお望みでしたからね、ーーーーレウ」
つぎはぎだらけの少年ーーレウは冷え切ったまなざしで、静かにジョーをにらんだ。
このお屋敷に足を運ぶのは何度目だろう。
異形を退治する任を負ってからというものの、レウは頻繁に霞子の家ーー日向本家へ呼ばれることが多くなった。
つぎはぎと白黒混じった髪、左右で色の異なる目は良くも悪くも目立つから、つねに外套で顔を隠している。
ただ、この屋敷ではジョーだけはこの素顔を見ても平然としていた。ジョーとのやりとりは、ぼろきれをぬいで素顔をさらした。
柔和に微笑む金髪のこの男。ジョーは霞子の従者であり、霞子を守る手練れでもある。
口調も礼儀正しく落ち着いており、人の警戒心を自然と溶かす。
だがレウには、この男がそれゆえに理解できない。
その微笑と穏やかな言葉には大きな裏があるようにも伺えた。あらゆる人間と関わってきたレウによる、単なる勘にすぎないのだけれど。
灯りという灯りはあんどんひとつだけ。ジョーもレウも夜目がきくおかげで、この薄い灯りだけでも事足りる。
レウは懐から文を取り出し、すっと畳に滑らせる。
「これが今回の報告書。霞子は無事取り戻し、彼女を連れ去った異形は僕がとどめをさした」
「……うん、確認できました。
それでは、報酬は仲介人に預けておりますので、お時間のある時に受け取りに言ってください」
それから、とジョーはレウに一つの袋を差し出した。
その存在に首を傾げながら、レウは袋の縁を持ち上げてみる。
貨幣の擦り合う金属音が手に伝わる。
ずっしりした重みからして相当の量がこもっていると思われた。
「これはなに。賄賂か何か?」
「いいえ、私のお気持ちです」
「あんたの気持ちって硬貨に変化するの? 仙人もびっくりだね」
「さすがの私でも、形のないものを形にするのはできませんよ」
ジョーは眉尻を下げて、喉をならして笑う。
「霞子を守り、このお屋敷に帰し、そして異形は殺した。
引き受けた依頼を過不足なく終了した。これにさらなる報酬を積み上げる必要が、あんたにあるとは思えないよ、ジョー」
結論から言うと、霞子がオレンジ灯の迷宮に閉じこめられたのは、夢ではなく現実だった。
寝室にいたはずの霞子が姿を消したのは、今日の逢魔が時。
お庭に出たのか、それともまたこっそり書斎に忍び込んで書物を積み上げていたのか、とジョーは心当たりのある場所を手当たり次第探した。
ところが見つからない。
霞子はその出生上、日向本家の外に出ることが禁じられている。
一族の中でも強い力を持っているがなにぶん制御が不安定なため、15の年になるまでの間、だたっ広い屋敷のさびれた隅っこの空間で暮らすことを、霞子本人が知らないうちに強いられていた。
霞子は狭い世界での生活が当たり前だと思っていたので、外に出ようと言う発想さえないのだ。
そんな霞子が望んで外にでるとは思えない。
そして至った結論が一つ。
異形により、あちら側の世界に連れ去られたのだ。
事態を把握したジョーは緊急の文で、仲介人を通じてレウを呼んだ。
そして至急、霞子の探索と保護、屋敷へ何事もなく帰すこと。
引き受けたレウは、それをすべてこなした。
決して簡単ではない依頼であったが、報酬や内容すべてを吟味したうえでレウは決意しなしとげた。
「報酬、少なかったでしょう」
「……? 充分もらったけど」
「実は、当初の金額は伝えた額の倍だったんですよ。日向家のうるさ方が出し渋ってしまったんです」
「へえ。仮にも日向の娘の命を半額にするんだ?」
「そうなんですよ。まったく、日向はいったいどういう常識をお持ちなんでしょうねえ」
「そうだね」
「それで、そちらの硬貨であなたに支払われるはずだった報酬に達するはずです。
少しばかり多いのは、霞子さんを助けていただいた、あなたへの、私個人のお礼です」
「へんなやつ」
「よく言われます」
ジョーは再び喉をならす。
「霞子は、なにも変わりない?」
「はい。夢としてすべてお忘れになりました。明日から、また普通の日常を送られることです」
「そう……。体に異常はない?」
「検査しましたが、異常はありませんでした」
「よかった」
レウは表情をゆるめる。霞子が無事であれば、自分が命をはった意味がある。
霞子を助けたかった。たとえ自分の命を捨ててでも。
途中、自分が助けられることになってしまったけれど。
「あ、そうだ。霞子のお守りは」
レウはジョーに問う。
あの蜘蛛女をひるませるために、霞子は本能で首に下げていたお守りである宝玉を投げつけた。あれには退魔の呪いが込められており、異形にとらわれたもしもの時のための緊急処置であった。
「草の者に確認してもらったところ、霞子さんのお守りは蜘蛛女の生命力を奪い取ったことで力を失い、砕けました。私がお渡ししたのは代わりのお守りです。呪力も込めてあります」
「……。霞子は、なにもかも忘れることができるんだね」
「ええ」
「……自分の母親だったものに、刃を向けたことも」
あの蜘蛛女は、かつては霞子を産み落とした女だった。
心優しく、異形を退ける力をも持ち合わせた美しく儚い女。
異形を退ける一族として、霞子を身ごもる前と生んだあと、異形に立ち向かい戦っていた。
しかし娘を生んだことで強い力がじょじょに失われてしまい、結果異形に取り込まれてしまった。
だが母親であった時の記憶がわずかに残っているらしく、娘への愛情がゆがんだ形になって、オレンジ灯の迷宮へと娘を誘い込んだ。
娘とともにいたいという願いを、異形が皮肉にもかなえたのだ。
それは人間である霞子とともに生きることはできないに等しい。異形と人間は相容れないのだから。
「知らない方がいいこともあります。
むしろ真相真実というのは、知るべきではないのですよ」
「ほう」
「真実というのは、人を傷つけるものであって、誰の救いにもならないんですからね」
ねえ、とジョーが顔を傾けてレウに問いかける。
「……まあ、霞子が無事ならそれでいい。じゃあ、これはありがたくもらっておく」
「おや、霞子さんにご挨拶なさらないので? 一晩の床は用意いたしますよ」
「いらない。せっかく夢で突き通してるんだから、夢の中の登場人物が現実にいてはいけないでしょ」
「それも一理ありますが、夢の中の誰かさんと、現実で再会するというのも、なかなか夢の広がる話だと思いますよ?」
「夢だけに? くだらないね」
レウは背嚢にジョーからのお気持ちをしまって立ち上がる。
ジョーはじっと背筋を伸ばして正座の姿を崩さない。
レウが襖をそっと開く。
「霞子さんは」
レウの足がぴったりと止まる。
「あなたと再び会って、お話することを、心の底でずっと夢見ていると思いますよ」
襖に触れるレウの指が泳いだ。視線が下に落ちていき、白黒の前髪が揺れる。
唇を引き結んで、今度こそ襖に触れた。
「夢だけに、って? くだらない洒落を繰り返すのが好きなのかな、あんたって?」
レウはぴしゃっと襖を閉めた。
廊下に立ち尽くして、レウは右手首を見つめる。
切れた赤い糸が、まだのこっている。
もうこれは必要ないものだ。オレンジ灯の迷宮で、霞子と離れないように結んだ、一時的な処置だったんだから。
指で模したはさみで切れば、この糸は跡形もなく消え去る。
そして霞子とレウのつながりが消える。
糸に指をかけた。ちょきん、と切ってしまえばあとはすべて終わる。
霞子とのつながりも、夢でごまかしたあの迷宮でのできごとも。
忘れていた方がいいのだ。霞子を困らせることはしたくない。
微笑んでいた霞子、この醜い姿を見てもおびえなかった霞子、きれいだと言ってくれた霞子、決死の覚悟で助けてくれた霞子。
指がいうことを聞かない。ふるえて、断ち切ることを拒否している。
まだわずかな可能性を欲している。無様に、情けなく、霞子とのつながりを保っていたいんだ。
レウは指を離す。
切るのはいつでもできる。と言い訳して。
暗く冷たい廊下を、レウは音もなく立ち去った。
了
オレンジ灯の迷宮 八島えく @eclair_8shima
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