第8話:ちぎれた糸を結ぶ

 ごんっ! と体を強く打ち付けた。


 霞子はむせかえりながら、抱きついているレウを探す。


「レウ……、起きてる?」


「う……」


 霞子はほっと胸をなで下ろす。どうやら、意識はあるようだ。


 レウからそっと手を離す。なるべくレウの顔を見ないように抱き起こす。かぶっていたぼろきれをかぶせてやり、顔を隠させた。


「怪我はない? どこも体痛くない?」


「ん……かすみ、こ?」


「うん! 立てる? 起きられる?」


「なんとか……」


 レウは上半身を起こして頭を振る。顔を上げようとして一瞬硬直した。


「か、霞子……」


「なに?」


「僕の顔……」


 言われて、霞子は思い出す。


 自分が、レウから告げられた約束を破ったことを。




 あわてて霞子は一歩さがる。


「そうだ! わたし」


 きちんと背筋をのばして正座する。地面が冷たくて痛かったが、そんなものは気にする必要はない。


「レウ」


「……?」




「ごめんなさい」


「かすみこ?」


「わたし、レウとの約束破っちゃったから。見るなっていったのに、顔を見たから」




 完璧な姿勢を保ちながら頭を下げる。横髪がはらっと霞子の頬をなでた。


 レウの息づかいと衣擦れの音だけが聞こえる。風の音はやんでいた。


 レウが動くまで、霞子はじっとしている。土下座の姿勢を崩さない。




「霞子、頭を上げて」


 レウの冷たい手が、霞子の肩に置かれた。


 霞子はうかがうように、そっとそちらを見上げる。




「僕こそ、ごめんね。きみを守るって言ったのに」


 レウが、ぼろきれをぬいだ。つぎはぎだらけの肌と、赤い目や黒白の髪がこぼれる。


 霞子はすっと一瞬だけ息を止めた。




「……この顔、昔からなんだ。異形の空間に迷い込んだ人は霞子の他にもいっぱいいた。そんな人たちを何人も助けてきたけど、顔を見られるたびに怖がられて」


「……」


「あんまり、見せびらかすものじゃないね。ごめん」


「違うよ! ぜんぜんこわくないよ!」


「霞子?」


「あのね、わたしもう一つ言いたかったんだ。




 レウの目、とってもきれいだねって」


 レウが、ぼろきれの裾をつまみながら、ぽかんと口をあける。


「髪も白いのと黒いのがきれいに分かれてて、肌の縫い目もしっかり整ってて、とってもきれいだって言いたかったの!」


「……そんなこと言うの、君が初めてだ」


「そうなの?」


「うん。みんな怖がるから。化け物だって」


「ぜんぜん化け物じゃないよ! レウはきれいだもん! 赤い目、きらきらしてて、宝石みたい」


 レウの顔に少し赤みがさす。開いた口をきゅっと結んで、うつむいてしまった。


 悪いことをしてしまったのかと、霞子は手をうろうろさせる。


「ごめんね! わたし、変なこと言っちゃった?」


「違うよ。ちょっと恥ずかしい。


 恥ずかしくて……とてもうれしい」


 レウが勇気を出して顔を上げる。




 はにかみながら表情をゆるめ、ぼろきれをつまむ指を落とした。


 そしてふと気づいた。自分の手首に巻かれた糸の存在に。




「あ」


「どうしたの?」


「糸……。そうか、僕が切ってしまっていたんだ。


 ごめん、きみに心細い思いをさせたね」


「あ、糸……」


 霞子も自分の手首を見つめる。


 赤い糸が巻かれていたが、その先はぶつぎられていた。




「大丈夫だよ」


 霞子はレウの手をとる。


 レウの糸をつみ、自分の糸もつまんだ。




「切れた糸は、また結び直せばいいんだ」


 霞子は細い糸を美しく蝶結びでとめる。ほらっ、と見せると、しっかりと糸はつながっていた。




「これで元通り。ね」


「……。……うん」


 レウがおそるおそる手を伸ばす。霞子はにっこりと、その手を両手でしっかり歓迎した。




「さあ、帰ろう。もうすぐだからね」


 レウが立ち上がり、霞子も引っ張られて立ち直る。






「それにしても」


 レウが周囲を警戒しながら話題を出す。


「ん?」


「あの蜘蛛の異形、よく退けることができたね」


「あのときは夢中で。なにも考えてなかった。


 ただね、レウをいじめてるのをやめてほしくて、あっちいけ、って考えてた。それだけなんだよ」


「いや、それだけで蜘蛛女をひるませて僕を助けることができるのは簡単なことじゃない。やっぱり、霞子は異形を退ける一族なんだね」


 レウが言っていた日向の家系の話を、霞子は思い出した。


 生まれてこのかた、屋敷から出たことのなかった霞子には、遠い世界の話に思えた。


「でも、こんなことは一回きりだよ。わたし、もうお屋敷に戻って、外には出ないもん」


「そう、だね」


「でも平気! お屋敷の中は楽しいし、従者たちもみんな良い人だから。本もあるしお菓子もあるし、お庭にはいろんな花が咲くから、なにも退屈しないんだ」


「霞子がいうなら、きっと楽しいんだろうね」


「うん!」




 二人は手をしっかりつないで、歩いていく。


 オレンジ色に照らされたあのときの空間はもう出てこなかった。


 代わりに蛍火が灯りとなり、出口を指し示してくれる。




「レウ」


「なに」


「よかったらさ、お屋敷に遊びにおいでよ」


「無理だ」


「な、なんで!?」


「僕は子供だし、霞子はそうでなくても、この姿は恐怖でしかないから、おびえさせてしまう」


「そっか……。じゃあ、こっそりおいでよ! わたしのお部屋はお屋敷の隅っこだから、裏門から入ってすぐなの。


 何か目印で、遊びにいくよっていってくれたら、裏門からお迎えにいくから」


「んー、じゃあ考えとく」


「よーし! 目印はなんにしようか。お花がいいかな。紙吹雪で知らせる?」


「紙吹雪ってなんか派手な目印考えつくね」


「そうかな」


「そうだよ」




 遊びに行くための目印をふたりで他愛なく考えていると、ふとレウが足を止めた。


「レウ?」


「出口だ」


 霞子が前を眺める。




 朱塗りの鳥居が、向かい合うように横に立っている。


 鳥居と鳥居には注連縄がきつくむすばれ、鳥居の柱にはべたべたと激しい字面の札が貼ってある。


「これが、出口?」


「そう。ここをくぐってまっすぐあるけば、お屋敷に帰れるよ」


 さあ、とレウが霞子の手を導く。その手はするりと離れようとしていた。霞子はとっさに握る。


「レウは? 一緒にこないの?」


「あの蜘蛛女を倒してから帰るよ。霞子が致命傷を負わせたけど、まだ生きてる。あれをしとめるのも僕の仕事だからね」


「大丈夫? また、捕まっちゃったりしないよね? 食べられちゃったりしないよね?」


「大丈夫。もうすぐ応援もくる頃だ。僕一人でやるわけじゃない。倒したらすぐに帰るよ」


「ほんと?」


「本当。だって、帰ったら霞子と遊ぶんだからね」


「約束ね? 絶対かえってきてね。そんで、いっしょに遊ぼう。すごろくとか蹴鞠とかあるし、本もたくさんあるから! 目印考えておくから!」


「約束するよ。だからほら、先にお帰り」


 レウの手が、自然と霞子から離れた。どれだけつよく握っていても、霧をつかんだように霞子の手にはなにものこっていなかった。




 ここから先は一人だ。


 霞子は一歩踏み出して、一度止まる。


 レウの方を振り向いて、様子をうかがう。


 静かに微笑むレウが立っていた。きっとレウは戻ってくる。そう心に言い聞かせ、霞子は笑う。


「レウ、またね」


 レウはそろそろと手を振った。




 霞子は前を向き、歩き出した。もう振り向かなかった。

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