第6話:既視感

 右も左も、前も後ろも、上も下さえもわからない。霞子はそれでも直感のまま進んでいく。


 あの蜘蛛女や木々に彼岸花はもういない。無数の蝶もおそってはこない。


 ひゅうひゅうと、冷たい風だけが足下をなでていく。


 足はじゃりじゃりとわずかに痛む。砂利道からときどき突き出ている石のせいだ。一歩一歩を慎重に進ませることで、霞子は足の怪我を回避していく。




 気を抜くとまた涙がこぼれてきそうだった。そのたびにごくっと息を飲み込んで、一度深呼吸して、すぐに気持ちを切り替える。


『もし困ったことがあったら、このお守りの中身を取り出してください』。


 従者のジョーの言葉を思い出す。レウのいない現在、終わりの見えない道、どこかもわからない空間にさいなまれるたび、握りしめていたお守りの中身をとろうとして、ぶんぶんと首を横に振る。いまはまだそのときじゃない。


 そのときはまだ、きっと別のときにくる。それまでは自分の力でレウを見つけるしかない。




 ざっざっ、とひたすら本人にとってはまっすぐ歩いていく。よけいなことを考えると気持ちが沈むから、ジョーに教えてもらったおとぎばなしに登場するお菓子のことを考えた。




 虫の音はなく風のかすかなささやきだけが頼りだった。耳と足の感覚を頼りにした。


 そしてふと気づいた。




(わたし、何でレウともう一度会おうとしてるのかな)


 ぴたっと足を止めた。ふと上を見上げる。暗闇だけが広がっていた。目は良い方の霞子でも、暗闇に一粒の星さえ見つけることはできない。ここは本当の暗闇だ。最初に見つけたオレンジ灯さえ存在しない。




 暗闇の空を眺めて、霞子は少しだけ物思いにふけることにした。




 レウの白黒混じり合った髪、つぎはぎしたまだらの肌、黒い目と赤い目。ぼろきれで体と顔を入念に隠し、決してそこから出ようとしなかった。


 でも霞子にだけは優しかった。どんくさい霞子をつねに心配し、なにがあっても守った。


 霞子が危険な目に襲われきるまえに、必ず守って見せた。




 霞子がレウと再会したいのは、ひとえに謝るためだ。最初に言われた約束を破ったのは自分だから。


 約束を破ったらごめんなさいを言う。ジョーによくさとされた。


 許してもらわなくても良い。でも謝らないままお別れするのは、霞子はいやだった。




(そう、なんだけど)


 霞子は視線を空から落とす。まっすぐ前に向き直った。




 謝ることは当然にしても、もう一つひっかかるものがあった。


(どうしてわたしを助けてくれるんだろ)


 レウがいうには、それが仕事だかららしい。


 それもそうなんだろう。レウにとっては、異形に食われかけているあわれな人間を守り、救出するのも仕事だ。異形を殺すお役目とはそういうものなんだから。




 だがそれにしたって、レウは霞子に親切過ぎた。この世界であれば誰もがしる異形、あちらの世界、こちらの世界のこと、食われること。


 なにも知らない霞子に対してあきれもわらいもしなかった。丁寧にそれらを説明したし、霞子の問いにもきちんと答えた。




 霞子は右手首を見つめ、指先でなでる。


 そこには、レウとつながっていたはずの糸があった。先がいびつにちぎれているのをたしかめると喉が苦しくなってくる。レウの拒絶と憎悪のまなざしを思い出してしまうから。




(この糸だって、レウがだめなわたしのためにつないでくれていたんだ)


 仕事だからって、ここまでするんだろうか? いくら霞子が鈍くさくてだめで、なにも知らない箱入りの小娘だからって。




 きっかけはそれだけだ。


 ただ、少しだけ気になった。それだけなのだ。


 その理由をレウから聞きたくて、霞子はもう一度レウと会おうとしている。




(レウが助けてくれたんだ。


 わたしは、レウに謝って、お礼もいいたい)


 何より会いたいから。謝るのもお礼を言うのも、きっかけさえも、会いたい理由の言い訳にすぎない。




 ふと、霞子の嗅覚が、何かをかぎとった。


 どこか遠くから、わずかに甘い匂い。


 鼻の次は耳が察知する。がさがさというかすれる音。


 甲高く響く、女のわらいごえ。




(もしかして、最初の蜘蛛のひと?)


 そこは危険地帯だ。罠かもしれない。


 距離を置いて別の道をすすむべきか? ぼんやりと浮かんできたオレンジ色の灯火が、あちこちに浮かんでいる。これをたよりにすれば、おのずと道が見えてくる。




 だが霞子は、迂回という選択肢を絶った。




「ぅ、く……っ」


 レウのうめき声を、はっきりと聞いたからだった。

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