ひとうとし

 森山郡の近くには割合大きな温泉街があり、近代的な作りの複合宿泊施設もある。

 駅でレンタカーを借り、30分くらいで宿にチェックインする。

「温泉気持ち良さそうだね」

「お兄さんお兄さん、目的忘れてないか」

「ごめん、でも終わったら一緒に温泉入りたいな」

 律はそう言って微笑んだ。

 ふたたび八合の胸は締め付けられるように痛んだ。誰か、誰か律の美しさに惑わされない――そんな人間はあり得ないので、何か別次元から来た化け物でもなんでもいいから律の顔に大きな傷でもつけてくれれば恐らくこの苦しみから解放されるのに、そうはならない。この場にいる誰もが律を見ているのに、律だけは八合を見ている。頭がおかしくなりそうだった。


 荷物を軽く整理し、簡単な山登りをするような恰好に着替える。八合はなるべく律の方を見ないように気を付けた。ただ男が着替えているだけなのに、何もかも捨てて犯してしまいたいと思うくらいの光景が広がっているに違いなかったから。

 土地がそうさせるのか、律の色香は東京にいたときよりずっと増したような気がする。

「そろそろ行こう」

 何もしていないのに声が震えた。律とは意図的に距離を置いて歩く。自分が何をするか分からないほどに興奮したことは未だかつてなかった。

 その間にも律は「久しぶりに来たけど昔よりもっと寂れている」だとか、「終わったらどこで何を食べようか」だとかそんなことを話しかけてくる。内容はほぼ頭に入ってこなかった。律の声は八合の耳には全て誘惑にしか聞こえなかった。一生懸命発声しているその白い歯に舌を割り入れたらどうなるのか、心地よい風鈴のような声が体中をまさぐったらどんなふうに変質するのか、そんなことしか考えられなかった。

 八合が何を話しかけても反応しないのに気付いた律が口を閉じるまで、八合は不快な音――例えばトラックのクラクションだとか、インクの切れたマジックペンで紙に線を引いた時の音だとか、そういうものを思い出して耐える羽目になった。

 花蘇芳ハナズオウが咲き乱れる腹磯緑地までは本来一時間程度の道のりだったが、変わり映えのしない風景の中を無言で歩くのは苦行めいていて、倍以上にも感じられた。

「動物注意」というシカの描いた道路標識が見え、律は「アッ」と声を上げた。アレが見えると言うことは、もう間もなく赤紫の色彩の洪水が目に飛び込んでくると言うことである。全く反応しない八合に不安を感じていた律は、単純に嬉しかったのだ。またいつものようにこちらを向いて、「ほらなんともなかっただろ」と、絵文字みたいな笑顔で笑いかけてくれる、そんな希望で胸が躍った。田舎にうんざりしていた過去の自分でも、花蘇芳は綺麗だと思ったのだ。八合にも見せてやりたいと言う気持ちもあった。

 実のところ律は八合が律のことを思うのと同じくらいに八合に欲情していた。八合が律の客と違うのは、肉体関係を結ばないところで、律もその一点で彼を特別視していたはずだが、次第にそのことが不満に思えてきた。律にとって随分前からセックスは贖罪兼仕事だったが、八合とならそれ以外の、つまりお互いを愛し合い、より深く知るための目的でセックスをすることができるのではないかと思っていた。何度かわざと八合の前で着替えたり、わざとだらしない恰好でベッドに入ったりもした。こんなことをすれば八合以外の人間は律が泣いて謝っても精魂尽き果てるまで犯しつくす。しかし八合は「もう、律はだらしないなあ」と困ったように笑うだけだった。そのことが嬉しくもあり、同時にひどく悲しかった。最初の頃は嬉しかった思いやりがどうやっても越えられない壁のように思えた。

 もしかしたら強引にこちらが上に乗り、彼の陰茎を中心に突き入れて腰でも振ればセックス自体はできるかもしれない。しかしそんなことをすれば彼とは永遠に。律は八合を失いたくなかった。

 田舎を出てからの十年はひたすら空虚で下らなかったが、八合だけは無意味ではなかった。八合のために生きていると言っても過言ではなかった。

 視界に赤紫の波が飛び込んできた。

「ほら、あれね、ハナズオウって言うんだよ。綺麗だよな、あれだけはここのいい思い出。ここ抜けると、昔の家があったとこに着くんだ」

「ああ」

 八合は目も合わさない。目頭が痛んだ。きっとこの何もない景色にうんざりしているのだろう。申し訳なさで目に涙が溜まった。

 赤紫の花からはなんともいえない、植物特有の臭いがする。律はやはり花を見ると吐き気がした。感動的だと思っていたハナズオウも今の律には単にあの世界で一番美しいバケモノを思い出させるものでしかなかった。八合が無反応なのも不快感を増幅させた。こんな場所、早く抜けてしまいたい、そう強く願った。

 永遠に続くかと思うほどの赤紫だった。しかし、やっとランドマークを見付ける。

「そこの大きい岩を右に」

「ああ、この辺だろ」

 律が言い終わる前に八合が口を開いた。

「どうして」

 八合はここへは初めて来るはずだった。

「この辺りでいいと言われているから」

 ぞっとするほど平坦な声だった。こんな八合の声は聞いたことがなかった。

 誰に、と聞く前に、急に体の自由を奪われる。縄で締め上げられたような感覚だが、何も目に見えない。声を出そうとしても舌が凍り付いたように動かない。

 律はかろうじて動かせる首を目一杯ひねったがもがくたびに圧迫感が増すだけだった。どうしても思い出してしまう。十年前のあの、忌まわしい――


「お久しぶりですね」


 聞いたことのある声だ。そして、最も聞きたくない声だ。

「見てくれは随分変わりましたね。といって本質は一切変わっていないようですが」

 猫のような目、刺すように鋭い声、小さな慎重に見合わない威圧感。

 イミコだ。

 肺が酸素を素早く送り出している。鼓動が耳に響いて、全身が心臓になったかのようだった。

「な、ん、で」

 ようやく絞り出した律の声は情けないほど震えていた。

 イミコ――中山りんごは律の問いかけを完全に無視して、

「本当にあなたは変わっていませんね。クズのまんま」

 りんごは律の前に立った。逆光で顔が黒く塗りつぶされる。

「この十年で何人と目交まぐわいました?私、だいたいのことは分かるけれど正確な数字までは分からないんです、まあ、数えきれないほどたくさんでしょうし、あなた自身も覚えているわけないですよね。あなた、他人のことなんてどうでもいいんですから。あら、何か言いたげですね。可哀想だから口だけは動くようにしてあげましょうか」

 りんごが十字を切るような仕草をすると、彼女の言葉通り律の口だけは動くようになった。

「どうでもよくなんかない、それに、あれは、俺は、自棄になって」

 やっと動くようになったのに、口の中はからからに乾いていた。もつれる舌を精一杯動かして抗議する。

「やっぱりそういう認識。本当に自棄なら自殺でもなんでもすればよかったでしょう。だから変わっていないと言ったのよ。あなたは結局自分が一番大切なんです。幼馴染の男の子に関係の解消を切り出されても絶対に認めなくてストーカーまがいのことを繰り返したらその子とその仲間にボコボコにされて写真も全部ばら撒かれて家族丸ごと地元にいられなくなってこちらに引っ越してきたのにいけしゃあしゃあと記憶を失ってそんなクズのくせに田舎者だと周りを馬鹿にして親御さんに一遍の感謝もなかった高校生の相馬律くんから何も変わってないんですよ」

 律の脳内にあの暑い夏の日に、世界一美しいバケモノと一緒のおぞましい夢の中で見たことが再現される。そうだった。あの、貧相な少年は、高遠だ、律の幼馴染の、高遠真一。映画を見ながらキスをしたのも、一緒にトンネルを掘ったのも、かき氷を唾液で溶かして食べたのも、全て真一との思い出だった。りんごの言ったことは何一つ間違っていなかった。律は真一が成長して、他の男と同じように女を好きになって、もうこんな関係をやめようと言い出したのが許せなかった。愛情ではなく醜い執着だった。律は真一の裸体を無理矢理写真に撮って強引に関係を継続させた。そんなことをしても結局は破綻するのに、それくらい必死だったとも言える。

 そして案の定破綻した。真一の知り合いだと言う連中に半殺しにされ、ひどく情けない写真を撮られて近所中にばらまかれた。その時に頭を強く殴られたので記憶が断片的に抜け落ちるようになった。しかしおそらくは、防衛本能が働いた結果だった。りんごの言う通り律は都合の悪い記憶は全て捨て去ったことになる。

 あのバケモノの名前を「高遠」と定義したのは律自身だったのだ。

 中にじわりと暖かなものが流れ込んでくる感覚を思い出す。あれは、確かにバケモノだった。律の体を支配し、奪っていこうとした。床を這いずり回る異形だった。それでも、なんて優しい生き物だったんだろう。律の記憶をそっくり書き換えて、あの暑い、幸せな部屋に、二人で、ずっと、永遠に――

 激しい衝撃で律の思考は遮断された。ややあってからひどい痛みが頬を襲う。

「ほら、今だって自分のこと。妹のことなんか思い出しもしていない」

 りんごに頬を張り飛ばされたのだった。相変わらずりんごの声の調子だけは冷静だった。表情が見えないことが恐ろしかった。

 妹。中山あんず。

 あんず、という名前を思い出すだけで、前頭部が割れるように痛んだ。鼻腔に鉄が香る。赤黒い血の記憶。思い出したくなかった。思い出したくなかった。それでも。

「ちがうっ!あんずのことはずっと、ずっと覚えている、消えるはずない、あんな、俺のためにあんな死に方をして、だから俺は」

「いいえ、あなたは妹のことなんて自分の悲劇を引き立てたエッセンスくらいにしか思っていない。妹の話したことも何も覚えていない。その証拠に彼が誰だか分からなかった」

 りんごはゆっくりと八合に近付いてその手を引いた。

「礼本さんの代わりに犠牲になった人の名前、妹は貴方に話したみたいだけど――まあ、礼本さんのこと自体忘れているでしょうから、こんな質問は時間の無駄ですね」

 律は縋るように八合に見つめたが、八合はまっすぐ前を睨みつけるようにして一切視線が合わなかった。

「三谷さんというんです。三谷あきら。その明さんの弟さんで、三谷なるというのが、あなたの愛しの八合くんの本当の名前ですよ」

 りんごが横を向いたことでやっと表情が見える。笑っていた。

「八合三成。わざわざこんな分かりやすい偽名にしたけれど、そんな必要もなかったですね」

 りんごの大きな目がさらに大きく開かれ、血走っている。反対に口の端は持ち上がり笑い声が漏れている。

「親御さんもずうっとあなたのことを気持ち悪く思っていたのよ。あなたのことを私に預けたのは――この村に来させたのはあなたのお父様。こちらの手違いで十年、伸びてしまったけれど、お母様は十年間、あなたの顔を見るのも嫌で嫌でたまらなかったそうですよ。だからこれから起こることを邪魔する人はいない。助けはこない」

 これほどひどいことを言われても律の心は全く波立たなかった。家族には疎まれていることくらい分かっていたし、律自身も家族に対して良い感情を抱いていたとは言えない。律にとってショックだったのは、八合がりんごの言うことを一切否定しないことだった。客にひどく扱われたとき介抱してくれたのも、笑顔で料理を食べてくれたのも、悩んでいるときにかけてくれた優しい言葉も、寝る前に軽く頭を二回叩いたのも、すべて嘘だったのか、そう思うと体が中心から裂けそうに痛んだ。


 雲一つなかった空はいつの間にか大きな雨雲で覆われ、遠くで雷が鳴っている。

「う、そ、だよね」

 八合――三谷は顔を背けて一言、気持ち悪い、と言った。

 雨が降り出した。気持ち悪い。その声が鉛のように重く律の心の深くまで沈んだ。

 気付くと律は大声で叫んでいた。

「ああいやだ、本当に、いつ見ても、うんざり」

 イミコが誰に聞かせるでもなく呟いた。雷鳴がとどろき、地面が割れるかと思うほどだった。

「もういいでしょう?全部思い出して、これ以上生きていたくないでしょう?終わらせてあげますよ」

 しゃん、しゃん、しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃん。

 イミコが鈴を鳴らす。律はさっきから叫んでいるのに声が一切出ていないことに気付いた。それになんだか眠い。悲しみを押しつぶすような猛烈な睡魔が襲ってくる。

 その間にもしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんと、三谷の顔もしゃんしゃんしゃんしゃんとなって、しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんが、遠く、向こうに、消えていく。


 意識を手放そうとした瞬間、律は思い切り腕を引っ張られた。

 鈴の音が止む。


「邪魔をするな」


 ひどく焦ったようなイミコの声がする。律を引っ張る何かはそのまま、崖の下へ落ちて行く。



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