あめふらし
早朝の東京駅に人だかりができている。その中心は当然彼だ。
相馬律はどこにいても間違いなく美しい。こうしてどこかで待ち合わせをすると実感する。そこがどんな場所でも彼だけうっすらと発光している。
今、彼はスマートフォンを弄っているだけで、さらに言えば寝起きのくすんだ顔色をしていて、髪も一切セットした様子もなく、量産品のスウェットを着用しているのに、美しくてこの世のものとは思えない。
よく創作などでは、男女問わず美形が冴えない容姿の人間と連れ立って歩いていると「なんであんなやつと」「引き立て役だ」などと罵倒される、というのがお約束だが、現実は違う。
律と行動をすると八合は完全な「無」になる。居酒屋の時のように、八合が律に対して泣かせるだとかそういった負のアクションを取らない限りは、そこにいないものとして扱われる。冷淡な態度を取られるといった次元の話ではなく、完全に存在がなくなってしまうのだ。
以前律が深夜に呂律の回らない声で「土産物の肉を食べて優しい世界に行こう」と意味不明な電話をかけてきたとき、迎えに行くと律は職安通りの近くでアスファルトに倒れて微笑んでいた。やはり不自然に人だかりができていたのですぐに分かったのだ。
人混をかき分けて近寄るのも困難だったわけだが、抱き起こして要領の得ない話をなんとかまとめると、客の一人に怪しい薬を飲まされたか打たれたかして、更によせばいいのにその状態でアルコールも摂取したということだった。それでもきっちり性交はしたようで、律のポケットには無造作に札束が突っ込まれていたので少しだけ感心してしまった。おそらく客と別れてから歩けなくなってしまったのだろう。
律の連絡先に登録されているのは八合の番号だけなのだ。実際こういうことは何回かあった。
律は必ずそのあと過剰なまでに謝り倒し、客から巻き上げた金で様々なものを八合に買い与えた。最初は断っていたが、断ると委縮して音信不通になったりする(三か月間連絡が途絶えたこともある)と分かってからは全て受け取っている。おかげで八合のワンルームはいつまで経っても片付かない。
とにかくその、八合が薬物と酒でおかしくなった律を運んでいる最中、律は突如泣きだした。時折その口から漏れるのは生きていて申し訳ないとか、贖罪の言葉だった。
八合が宥めすかしても一向に律は泣き止まず、最初はすすり泣きだったのが徐々に号泣に変わった。
律が大声をあげて泣きだしてから五分と経たずにわかに人が集まり始め、あっという間に取り囲まれてしまった。全員一様に八合のことを睨みつけていた。雨が降っていたにも拘らず、老若男女問わず、全員が傘もささずに獣のような目で八合を見ていた。
謝罪しろ、土下座しろ、ここで死ね、そのような罵詈雑言や、暴力が浴びせられた。ほうぼうの体で逃げ帰ったが、八合は頭に三針縫う怪我を負った。
居酒屋で律が泣いたとき飛んできた店員の目は、まさにあの夜の群衆の目と同じだった。律がすぐに取りなしていなければまた八合は暴力を振るわれていただろう。
睨みつけられたときに背中に走った悪寒を思い出し、深くため息をつく。そろそろ律に声をかけなければ新幹線に乗り遅れてしまうだろう。
おはよう、と声をかけると律は八合を見上げて嬉しそうに微笑んだ。同時にどすん、と重い音がして、振り返ると先程から律を取り囲んでいた何人かの男女が地面に膝をついていた。
だから、マスクをしろと言ったのに。
客を取るとき以外はマスクをするなりサングラスをするなりして美貌を隠した方がいいと言ったのは一度や二度ではなかったが、律はいつも適当にはぐらかした。
八合はときどき、律は当たり前のように己の美に自覚的で、それによって他人を篭絡するのを楽しんでいるのではないかと思う。一見するとゆるやかな自殺とも取れる律の生き方だが、矛盾が多すぎる。好みでない男に抱かれるのが贖罪だと思っているのなら、抱かせるだけ抱かせて金など取らなければいい。生活に必要なだけもらっているというのなら分かる。しかし律は客のひとりが買い与えたというマンションを持ち、また別の客が彼のためだけに作ったというペーパーカンパニーに所属し、給料を得、税金等をそこから捻出しているという。要は、一切金に困ってはいないのだ。
さらに、一回の金額が尋常ではない。八合にはウリの相場は分からないが、高級風俗店の利用料金よりはるかに高いように思う。律の客は、全員が全員マンションを寄越した客やペーパーカンパニーの客のような富豪ではない。それなのに誰も彼もが律の時間を手に入れた代償に財布を空にしてしまう。だから「稼いだ金」ではなく「巻き上げた金」なのだ。
それに対して律は罪悪感を微塵も感じていないようだった。金自体興味がないのだという。
曰く、
「お金を払わなくても必要なものはだいたい手に入るんだ」。
一方で、律は八合に対してはひたすら献身的だった。
毎度酩酊状態で夜に呼び出されていると聞けば八合が律に献身していると思う者がほとんどだろうが、実際は違った。
迎えに来させた詫びとして渡される物品は冷蔵庫であるとか洗濯乾燥機、食器洗浄乾燥機などの非常に高額なものばかりだった。
出会ってから一年も過ぎないうちに、律はほぼ毎日八合の家に寄るようになった。そして毎回食材を大量に買ってきては、何品も作り振舞った。律が新調したキッチンと律が購入した大型冷蔵庫がここで役に立った。
律が八合に依存していることは明らかだったが、八合もまた律に対しては通常の友人とは違う感情を抱いていた。
数か月前に結婚した八合の同僚は「結婚はいいぞ」と呪文のように唱えている。どこがいいのかと問うと「家に帰ると綺麗な女がうまい飯と一緒に待っててくれるのが最高以外なんなのか」と問い返された。
八合にも分かる気がした。
律は料理が上手だった。味覚が鋭敏なのかもしれない。八合と外食すると、その店の味をすぐに再現してしまう。
女ではないが、とにかく綺麗な生き物がうまい飯と一緒に待っている。毎日ではなかったが、ここ数か月は頻繁にそうだった。
律は腹が満ちるとすぐベッドに潜り込んで寝てしまう。その寝顔を見て何度抱いてしまいたいと思ったか分からない。街を歩く時の虚ろな雰囲気とは違い、寝顔はどこまでも安らかだった。手を近付けると気配で分かるのか頬を摺り寄せてふにゃふにゃと微笑む。それだけで八合の体中の血管は脈打ち、陰茎が怒張した。
律が体を拭いたタオルを嗅ぎながら何度も自慰をした。果てたあと、世界で一番空しい気持ちになる。
律が八合に依存しているのは、八合が唯一自らの肉体的魅力で篭絡できない人間だからだ、ということは八合本人が一番よく分かっていた。
よしんば欲望のままに律を襲ったとしても彼は抵抗することはないだろう。しかし、その時点で築き上げた信頼関係は崩れ、八合は律の客に成り下がる。
それだけは避けなければいけなかった。
連休最終日の今日は、下り線のホームはやや閑散としている。律は売店の方にちらちらと目をやっている。
「弁当買わなくていいのか」
「んーん、大丈夫。八合も買わなくていいから」
律は奇妙なステップでホームを歩いた。
「それよりさ。こんなことに付き合ってくれてありがとう。八合がいなかったら俺は絶対に帰ろうなんて思えなかった。いや、今日のことだけじゃない。いつもいつも、本当にありがとう。八合がいなければ……いなければ、多分自殺してた。本当に感謝してる」
「やめろよ」
八合が顔を逸らすと、律は照れるなよ、と言って笑った。
一泊二日、ほとんど手ぶらで来た二人は詰まることなく新幹線に乗り込んだ。
「さっきたくさん水飲んじゃったから通路側に座らせて」
律はそう言って、八合に二人掛けの席の奥へ行くよう促した。
「誰か――友達と、こうやって旅行行くの初めてだからなんか、俺のために別に行きたくないのについてきてくれてるの分かってても、ウキウキする」
そんな可愛いことまで言う。
「修学旅行とか行っただろ」
「ああ、ずっと先生とセックスしてたよ」
八合は言葉を続けられなかった。
しばらくすると何人か乗客が乗り込んできて指定席が次々と埋まっていく。
男女四人グループがこちらに目を向け、そして視線は一点――八合の隣に集中する。グループはもはやお互いのことさえ見えていない様子で騒々しく律に近付き、
「あの、これどうぞ」「これも」「これも食べてください」
みるみるうちに律の膝は食料品の袋で見えなくなる。律は遠慮するわけでも礼を言うわけでもなくただただ虚ろに微笑んでいた。
『弁当買わなくていいよ』
『お金を払わなくてもだいたいのものは手に入るんだ』
律の言葉を反芻して、やはりこいつは魔物なのだなと思う。
魔物に心を許してはいけない、愛してはいけない。
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