印
たぶらかし
電車の窓に映る自分の姿を見て、美しいな、と相馬律は思った。
それは自惚れでもなんでもなく単なる事実だった。
ひしめき合う乗客の頭越しに彼を見付けた女子高生は、その瞬間から片時も目を離せないでいた。後ろに立つやや大柄な中年男性は律のうなじに二つだけ並んだ黒子を何度も数え、彼の頭頂部から漂う甘い香りを少しでも吸い込もうと鼻腔をひくつかせた。その横の大学生――二人は仲の良い
こういった例は枚挙に暇がなく、彼の存在に気付いた乗客は誰もが律の体に少しでも密着しようとか、残り香だけでも嗅ごうとかする。しかし当の本人は乗客の熱狂に気付いていながら何の反応を返すわけでもなかった。
律は田舎から母の実家のある埼玉県に移り住んだ。そのとき既に彼は何かと溶け合いすっかり混じってしまったかのように変わっていた。彼が東京にいたころの知り合いも、ほんの数日前田舎にいたころの知り合いでさえ、彼と会っても己が知る「相馬律」と目の前の美しい男が同一人物とは思わないだろう。確かに彼は元から垢抜けたみてくれをしており、それなりに目立つ方ではあっただろうが今とは比べるべくもない。爛々と輝くような美貌と虚ろな陰鬱さが彼の体に同時に宿り、それが彼の魅力となって強烈に他人を惹き付けていた。
律は埼玉県の高校を卒業し、そこから通える東京の大学を卒業した。そして卒業後も実家に住んだ。母親や何かと世話を焼いてくれた祖母には東京で物流の会社の営業職に就いていると伝えていたが、現在の彼は男妾を生業にしていた。律の意思ではない。彼が望むと望まざると、彼の美貌は他者を狂わせ、集団の中に存在することを許さなかった。
とはいえ律が男妾となったのはあくまで成り行きだった。それは律が高校に編入して間もない頃だった。律は何をするでもなく放課後の教室にいた。友人と呼べる人間もおらず、部活動もやっていなかったが、単になるべく家族と接する時間を減らしたかったのだ。授業が終わった後窓の外を見てぼんやりと時間を潰すのが日課になっていた。
日が沈みかけ、律は空の群青色と太陽の橙色の境目をじっと眺めていた。スピーカーから途切れ途切れにグノーのアヴェ・マリアが流れ出す。
『下校の時間です。まだ校内にいる生徒は速やかに下校してください』
時計は17:50を指している。それでも律は立ち上がろうとせず、慌ただしく帰り支度をし始める運動部の生徒たちの生活雑音を聞いていた。18:00を過ぎると生活指導の夏原が見回りを開始し、残った生徒を厳しく叱責して下校を促す。律はここに来てからずっと叱責の対象になっている。
そういえば昨日、『次ダラダラ残っていたら反省文を書かせる』と言われたことを思い出す。しかしそれはかえって好都合だった。付き合わされる教師には申し訳ないが、書いている時間分帰宅が先延ばしになる。
そんなことを考えて時計を見ると、18:00を15分も過ぎている。いつもならとうに怒鳴り込まれる時間だ。廊下やグラウンドなど、律のいる教室以外はすっかり電灯が消されている。寒々とした薄暗がりが晴れることのない律の心をさらに憂鬱にした。さらに15分経って階段から明かりが消えたのを見て、律はそろそろ帰るかと腰を上げた。
「相馬」
教室の入り口に夏原が仁王立ちしていた。
「すみません、今帰りますから」
「いや、いいんだ」
筋骨隆々とした夏原の声はいつも怒気を帯びていて、喧嘩腰でなく話しているのさえ見たことがない。下校時間を無視している律のような生徒に対してはなおさらだったのだが、今の夏原は分厚い唇を弓のような形にして微笑み、声も幾分か落ち着いている。軽く会釈して教室から出ようとするとがっしりと肩を掴まれた。
「先生なあ、ずっと考えてたんだよ」
笑顔を作ろうとして無理に開かれた口に金歯が光っている。
「どうして何度叱っても、部活や委員会があるわけでもない相馬が教室に残っているのかって。心理学の本も読んでみたんだ」
「そうなんですか」
こういったことは言われ慣れている。家庭に居場所がないだとか、心に問題を抱えているとか、寂しい思いをしているから救いの手を求めているとか、そんなふうに勝手に分析されたことは沢山あった。全て当たっているし当たっていない。確かに心は伽藍洞であったし何をするにも退屈で家にも帰りたくなかったが、土足で心を踏み荒らしてくる相手の助けは求めていない。困ったことにカウンセラーや教師などの職業の人間には、一定数こうして親身になることで自分が気持ち良くなる人間がいるのだ。律にとってはマスターベーションを見せつけられるような不快感があったのだが。
とはいえ夏原は言葉は厳しく役職柄一部の生徒に煙たがられているものの、基本的には良い教師であると思う。行き過ぎたからかいを繰り返している生徒に厳しく注意していたのも見たことがあるし、高校三年生の進路相談に真摯に対応しているのも見た。だから恐らくこれもマスターベーションなどではなく、本気で律を心配している故の発言なのだろう。そう思って律は相槌を打った。
しかし、次に夏原の口から出てきたのは思いもよらぬ言葉だった。
「相馬、お前先生のことが好きだろう」
驚いて顔を上げると夏原の笑顔はさらに大げさになっている。薬指の細い指輪が不釣り合いなほど太い指が律の肩にずぶりとめり込んだ。
「先生がこうやって教室に来るまで毎日待っていてくれたんだもんな。相馬はシャイなところがあるから、皆が見ているところでは声をかけづらかったんだよな、ずっと気付いてやれなくて悪かったな。もう大丈夫だ」
夏原は律を抱きすくめ、そのまま机の上に押し倒した。机の角が腰を圧迫して骨が軋む。思わず顔を顰めると、夏原は荒い呼吸をしていた。律は犯されている間中ずっと夏原の呼吸数を数えることになった。
肛門を使うのは初めてだったが特に痛みを感じることはなかった。その代わり陰茎を挿入されるというのはこれほどまでに屈辱的な気分なのだな、としみじみ思った。
渋谷に住んでいたころの幼馴染健司とも、田舎の高校で出会った中山あんずとも、そしてあの素晴らしく美しい生き物とも、常に律は挿入する側だった。後悔が波のように押し寄せる。埃っぽい部屋でただ机のきしむ音を聞きながら律は涙していた。
粘ついた舌を白い歯の間に割り込ませ雄牛のように呻きながら、夏原は律の中で三回果てた。薄暗がりに白い裸体が映えて発光している。天鵞絨の布でもかければ、随分前に美術館で観た女神の絵画そっくりになるだろう。あまりの美しさに目が眩む。もう一度その腰に手をかけようとして、しかし滴り落ちる自らの精液を見て冷静になった夏原は、タオルで律の体を拭いてやり、服をある程度元通りに着せた。そして気まずそうに財布からくしゃくしゃの一万円札を数枚出して、悪かった、このことは誰にも言わないでくれと言いながら足早に去っていった。
残された律は暗くなった教室で自分の行く末を悟った。軋む体を起こして帰路につく。飲み屋の並ぶ繁華街を歩き、その日のうちに行きずりの若い男に8万円で春を売った。
私娼、散娼に分類される律の仕事のシステムは非常に簡単だった。複数の出会いを目的としたアプリに登録し、スケジュールの空いているところにマッチングさせる。それだけでよかった。会えば誰でもどうにかして律を手に入れようと財布を空にするのだから。
男女分け隔てなく客を取っていた律であったが、女を相手にすることはほとんどなかった。勿論男の方が金払いが良いという理由もあったが――女の良くしなる髪を梳けば背筋を這い回るような美貌の生き物の幻影が頭をちらつき、柔らかく生暖かい肌に触れるとイエズスキリストの如き自己犠牲を持って彼を救った少女の赤黒い臓物がフラッシュバックした。彼を最も苦しめたのは女の口臭だった。独特の鉄のような臭いがするのだ。それは母親からも祖母からも漂い、彼は家族で食卓を囲むことを避けた。インターネットで調べたところプレボテラインターメディアという細菌が女の口臭と密接に関わっているらしい。しかし律の不快感がそのプレボテラインターメディアのせいであるかどうかは分からない。幸い女性は律が露骨に眉根を寄せていても嫌がる様子がかえって蠱惑的だと感じたし、全く使い物にならなかったときも彼の時間を独占できることに歓喜した。
彼が女を相手にしたくない理由はもう一つあった。夏原に犯され、体内に異物を受け入れる屈辱を知ったあの日から、彼はそれを贖罪だと思っていた。女と交われば、いくら不快になったところで多少の性的快感を得てしまう。それでは駄目だった。
彼の根本は同性愛者であったが、一般的に同性愛者に好まれるとされる筋肉質・太め・髭というような雄々しい男性(夏原は全て満たしている)には全く興味がなく、線の細い女性的な部分のある美少年が好きだった。それゆえ彼はかろうじて女を抱くこともできたのだ。皮肉にも律は最も自分好みの青年に己がなってしまったのだが。律の固定客にむくつけき筋肉男や脂ぎった中年男性、あるいは枯れ枝のような老年ばかりなのは彼の思う贖罪のためであった。本音を言えば早く性感染症にでも罹って苦しんで死んでしまいたかった。しかし早死も死んだ彼女への贖罪にならない。彼は
――新宿ゥー、新宿です――
鼻声のアナウンスが電車の到着を告げる。律が降車口を向いたのを見た乗客は、不快な満員電車だがもう少し乗っていたかったと思った。
律が今回新宿に来たのは珍しく仕事のためではない。数少ない知人と言ってもいい存在、
「綺麗なお兄さんと話してみたかっただけでそういうつもりじゃないんだよ」
いつも服を脱ぐ間も無い律にとっては非常に新鮮な反応だった。田舎であったことは話さなかったものの、律は自分の自暴自棄な生き様を包み隠さず話した。八合はそれに対して否定も肯定もせず、時間がある時一緒にご飯を食べたりしようと提案した。多分、体にいくら気を使っていても精神をおかしくしてしまう、そう八合は言った。
八合は馬鈴薯に目鼻を付けたような朴訥な顔をしていて律の好みではなかったが、彼の態度に好感を持った律はそれを受け入れ、二年近くこの関係は続いている。
春先のアスファルトに名も無い花が咲いている。花は嫌いだった。もう10年も経っているのに記憶はあまりにも鮮明で思い出す度に体の芯が底から冷える。
建物だけをまっすぐ見て東口の横断歩道を渡り、八合の待つ飲食店に急ぐ。律とすれ違う誰もが振り返り、うっとりとその後ろ姿を見送るのだった。
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