橙
「では確認になりますが、この三点は絶対に守ってください。この村にはあと10年は絶対に近付かないこと。お爺様がどうなってもです。律君だけは絶対に駄目です。見たこと聞いたこと全て外の人間に口外しないこと。そして最後に、妹が死んだことは忘れなさい。あなたがどう後悔したところであの子は戻ってこないし、あの子だって覚悟していたことでしょうよ」
中山りんごは鈴の鳴るような声で相馬律とその母親に言った。相馬律の目は虚ろだが、しっかりと耳は働いているようで力なく頷く。
夜明けを迎えた森山郡の空気は澄み切っている。空はうす白んでなんだか眩しい。手配したハイヤーの運転手に適当な挨拶をして、荷物を積み込んでいく。どうやら相馬律は一時的に彼の母親の実家に身を寄せるようだ。
母親に促されて相馬律が頭を下げ、絞り出すようにありがとうございます、と低い声で言った。そしてのろのろとハイヤーに乗り込み、ドアが閉まる。
「お母さま、大丈夫ですよ。何も心配はありません。少し待っていただくことになるだけですから」
不安そうに見上げる母親の視線を内心鬱陶しく思いながら、わざと芝居がかった口調で中山りんごは答える。手を握ってやると幾分か安心したようで、頭を下げて感謝の言葉を述べた。車が出発してからも彼女はこちらを何度も振り返り、中山りんごもまた、車が完全に見えなくなるまで笑顔で見送った。
「今年はやっちまったなあ」
後ろで今回70を迎える山田が言った。村民たちも神妙な顔で頷く。
「りんごちゃん一体どうするつもりなんだか」
――こいつら自分たちでは何もやらないくせに――
心の中で舌打ちをしながら、それでも笑顔を崩さずに中山りんごは答える。
「皆さん、何も問題はないのです。順調です」
「順調ったって、行っちまったじゃねえか!」
村民たちがざわめく。
「10年、たった10年ですよ」
「あんたにとっちゃ『たった』でもこっちは10年後生きてるかも分かんねえよ」
中山りんごは少し首を傾けて、
「長く感じますか?農家を営んでいる皆さまはご存知のはず。時間をかけてゆっくり丁寧に育てた作物が、どれほど極上の味か」
それはそうだけどよ、とまだ何か言いたげに山田は口を動かしている。まったく老人という生き物は、相手が若い女と言うだけで何か文句を言いたいのだ。
それにしても、馬鹿だ馬鹿だと思っていたが妹がここまで底抜けの馬鹿だとは思いもしなかった。ほんの数か月の付き合いの男の子のためにまさか死ぬなんて。体の関係はあったようだけど、そんなの私たちにとってはなんでもない、ルーティンワークのようなものだったはずなのに。幼いころから一緒に育ってきた姉妹の情が胸をほんの少しだけ刺した。
中山りんごは自らの頬を打った。こうすると途端に不要な記憶は頭から追い出されるのだ。勿論死んだ妹のことも。彼女はこうしていつもうまくやってきたのだ。
くるりと後ろを向くと大勢の村民が彼女の次の言葉を待っている。彼女は微笑んで、
「さあ、皆さんまたいつものように過ごしましょう。育てましょう。あと10年、10年経てば限りない幸福が皆さんを待っているのですから!」
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