――かけまくもかしこきもりやまじんじゃのおおまえに――

 イミコが祝詞を唱え始める。その間にも鈴は絶えず鳴り続け、耳が壊れそうなほどだ。

 何かを引きずるような音は建物の四方から聞こえる。得体のしれない恐ろしいものがぐるぐると建物の周りを這い回っている。そんな様子を嫌が応でも想像してしまう。

――やそかびはあれどもこんにちをいくひのたるひとえらびさだめて――

 両親の方に目線だけ向けると、二人で抱き合い手を合わせている。ふと、あんずと目が合った。潤んだ瞳からは恐怖以外の感情が読み取れない。

――とつぎのいやわざとりおこなはむとす――


 ピタリと音が止む。鈴の音も、這いまわる音も、目の前のイミコの呼吸音すら止まっているような気がした。

「りっちゃん」

 ちょうど正面の窓から声が聞こえる。瑠樺。瑠樺だ。瑠樺の声だ。俺が一番聞きたかった、この世で一番美しい生き物の声だ。

「りっちゃん、いれて」

 瑠樺。瑠樺だったんだ。這い回っていたのは得体のしれないバケモノではない。俺に会うために瑠樺が来てくれたんだ。俺を救うために。瑠樺の名前を呼びたい。瑠樺、鍵を開けて、早く瑠樺に――何度叫ぼうとしても声が出ない。身を捩っても蛆虫のように体をくねらせることしかできない。

「まだいけません」

 俺の腹に足を乗せて、イミコは言った。

「殺されたいのですか?まあそうなのでしょうが、今死んでもらうわけにはいかないのですよ」

 イミコは鈴の沢山ついた道具を取り出した。注連縄についていた鈴よりも清涼な音が耳を擽る。床を踏み鳴らしながらそれを上下左右に振る様子は荘厳で美しく、修学旅行で見た蘭陵王の舞にも似ている。舞の間もイミコは祝詞を続けている。頭が割れそうに痛い。

――うみかわやまぬのくさぐさのものをささげまつりて――

 やおら、窓が揺れた。誰かが――瑠樺が、窓を叩いている。リズムでもとっているかのように三連続、徐々に激しさを増していく。

 同時に甘い声が耳を蕩かす。

「りっちゃん、いたいのがすきなの?」

 あの日、瑠樺に初めて触れた日。

「りっちゃん、いたくするのがすきなの?」

 瑠樺の肌に、粘膜に、血に触れた日。

「りっちゃん、たたいていいよ?」

 瑠樺はあの日からずっと、俺のために。

 瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。

 いつでも触っていい。

 いつでも殺していい。

 いつでも


「入っていいよ」

 自然と口が動く。今まで声が出せなかったのが嘘のようだった。

 六角の壁の一面がボロリと崩れ、白くて大きい、美しい光が差し込んでくる。『あれは呼ばれねば入れね』だったか、祖父の言葉を思い出す。そうだ。瑠樺はいたのだ。あのとき外にいたのはやはり瑠樺だった。瑠樺は俺の許可を待っていたのだ。なんて健気な。そんなことがなくても瑠樺は入っていい。いつでも入っていいんだ。

 ダメ、と鋭く叫んだのは恐らくあんずだ。でもそんなことはどうでもいい。

 俺はいま暖かい光の中にいるのだ。口腔から鼻腔から、すべての穴からそれがどろりと浸み込んでいくのが心地いいのだ。庭に咲いた季節など関係なく咲き誇る花々の甘い芳しい柔らかさが脳に根を張ってより美しくなるのだ。目でも耳でも鼻でも胃でも腸でも陰茎でもなんだって、そんなものはどうでもいい、全て必要のないがらくただ。全部あげるよ瑠樺。声は残しておいてほしかったかもしれない。全部あげる。いつでも入っていいよ。そう言いたい。瑠樺の顔が見えた。ああそうか、もう彼の顔を見ることはできないのかもしれない。でもこれから起こる何か素晴らしいことを考えれば――瑠樺の鱗は光を反射しひしめき合って宝石のようだ。綺麗だな、と伝えると声も出していないのに鱗を動かして微笑む。暗く深い水のような瞳が潤んでいる。瑠樺が手を伸ばし俺の眼球に直接その可憐な粘膜が触れ鼓動が速くなる。早くしてほしい。早く溶けたい早く。


「あなた一体自分が何をしたか分かっているの」


 ぼんやりと天井を見つめている。不快感で溺れそうだ。涙腺が弾けて塩辛い。声の方に首を動かす。歪んだ視界の端で大きなものがのたうっている。そして床に滴る赤黒い血液――鉄臭い。女は鉄臭いと思った。女が倒れているのだ。女の腹からこれは流れている。臭い。女は臭い。だから。

 突然呼吸器が詰まり、激しくせき込んだ。自分の体内から信じられないほど汚らしいヘドロが出ていく。ヘドロを吐く苦しみよりもそれと同時についさっきまで体の芯まで満ちていた幸福が溶け出していくのがひたすら悲しかった。

 あれが全て抜け出してすぐに耳が戻った。よく聞こえる。女の、母親の嗚咽。父親の慟哭。そして――

「あんず」

 あんずは笑っていた。腹を破られてなお、幸せそうに俺を見ている。

 おねえちゃんごめんなさい、りっちゃんだいすき、うわ言のようにくりかえしてからあんずは三度目に首をガクリと落とした。

 ようやっと理解した。あんずは俺の代わりに捧げてしまったのだということを。

 あんずの腹を食い破ったものは床を跳ねまわっている。嬉しそうに鱗まみれの体を輝かせて。悪寒が背筋を駆け抜ける。もう吐けるものなど残っていない胃から酸っぱいものがせり上がる。目の前の鱗まみれのなにかに吐きかけてやれば時間が戻るだろうか。あんずはまた笑って俺に微笑みかけるだろうか。俺は何もしていない。彼女を使いつぶして、田舎者だと見下して、足にじゃれついてくる野良犬くらいにしか思っていなかった。あんずの甘ったるい鼻にかかるような声が蝸牛にこびりついて恐らくこれでもう一生取れない。今すぐ俺を解剖して、腎臓でも肝臓でも心臓でもなんでもいいから取り出してふかしたてのパンのように柔らかい腹を元通りにしてほしい。何も声が出ない。泣けなかった。あんずはもう動くことさえも許されないのだから。

 イミコは舌打ちをして俺の方を一瞥すると両親に近寄り、

「大変申し訳ありません、失敗しました。本当にどうしようもなく不出来な妹……許していただけるとは思っておりませんが、自体は急を要します。私はこれをなんとかしますので、あなたがたは夜が明けてからすぐこの村を出てください」

 イミコはのたうつ何かを床から引きはがし、白い布でくるんだ。俺と目が合うと取り繕うように目を細めて笑った。笑顔はあんずにそっくりだ。しかしそこにはなんの感情も宿っていない。

「ああ、急に出ろと言っても不可能ですね。村を出るのは息子さんだけで大丈夫です。まだぼんやりしているようですから連れて行ってあげてください」

 おずおずと母が立ち上がり、俺の体に腕を回す。少し遅れて父が来て、俺は抱きかかえられるような形で部屋を後にすることになった。

 振り返るとイミコは口の端を吊り上げて、白い布を愛おしそうに撫でていた。








 



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