金縷梅

 腿に滴るひとしずく、それを舐めとると、瑠樺はかすれた声でああ、と言った。

 サイズの合っていないシャツの隙間に手を滑り込ませる。今まで触ったどんなものよりもすべらかで、吸い付くような感触。堪らなくなってシャツをひきむしり、瑠樺の胸に顔を埋めた。ほとんど脂肪のない、それでいて女性的な柔らかさを持った胸部は、彼が呼吸をする度小さく震えている。何度も無意味に頬を擦り付けるうち、熱くなった肌はやがてどちらがどちらの肌なのか分からなくなる。

 そうして一つになっていると、ふいに頭を持ち上げられる。目線が合う。瑠樺と目線が合う。しっかりと俺の瞳を見ているのだろうか。自分がこれほどまでに美しいと知っているのだろうか。だから微笑んでいるのだろうか。

 「抱いて」

と瑠樺が言う。俺は勃起した陰茎を挿入する。

 「そうだけど、そう、じゃ、ない」

 非難めいた口調と裏腹に俺を咥え込んで離さなかった。もう会話は必要なかった。瑠樺は俺の口唇を貪りつくし、俺もまた同じようにした。

 「灼ける」

 絶頂が近付くと瑠樺は少女のような声で叫んだ。

 「灼けるっ、お願い、抱きしめて」

 灼ける、灼ける、灼ける、その声に促されるかのように俺は果て、同時にきつく抱きしめた。そしてようやく、これが抱いての意味かと気付く。味わいつくされた瑠樺の口唇がひくひくと痙攣している。もう一度深く吸う。陰茎を引き抜こうとすると、彼は足をきつくからませ、それを拒んだ。きゅう、と強く締め付けられ、再び下半身に血液が集まっていく。

 「ずっとこうされたかった、こんなふうに大事にされたかった」

 瑠樺の涙が蛍光灯を反射して光っている。


 瑠樺と俺は幼馴染だった。好きだとか恋愛だとかそういう気持ちでは言い表せないものを抱えていた。産まれたときからずっと一緒だった。半身ですらなかった。瑠樺は俺のすべてだった。

 セックスという単語を知る前から俺たちは二人でどろどろに溶け合うそれを知っていた。瑠樺が家に泊まりに来た時――小学校高学年くらいだっただろうか。そのとき、夜更かしをしてテレビを観ていた。なんとかという巨匠の撮ったアート志向の作品、内容は難解でよく分からなかった。それでも十分だった。見たことも無いくらい綺麗な白人の俳優と女優が重なり合っていた。二人の舌が二匹の蛇のように絡まり、離れ、また絡まる。ぴちゃぴちゃという音は雨の日の水たまりとは明らかに違う、何かとても素晴らしいもののように聞こえた。同じ布団を被っていた瑠樺の震えが肩に伝わる。瑠樺の方を見ると彼もまた俺を見ていた。第二次性徴を迎えた俺と違い、顎の線がふっくらと丸みを帯びている。首は細く、快楽で顔を歪める画面の女優よりもずっと柔らかそうだった。瑠樺が俺の手を強く握った。結論から言うと映画が終わってカラーバーが画面に表示されても俺たちはずっと混ざり合っていた。

 もっと以前の話をすれば小学校に上がる前だ。砂場で遊んでいた。瑠樺が山を作り、俺はトンネルを掘った。掘った向こうに瑠樺の小さな手があった。そのとき。

 また、夏休みのことだった。縁側で瑠樺とかき氷を食べていた。瑠樺は氷を唾液で溶かし、それを全体にかき混ぜて美味しそうに食べた。りっちゃん、こうすると美味しいんだよと教えてくれた。そのとき。

 俺と瑠樺は同じことを考えて同じように行動した。


 体をゆっくり起こすといつの間にか瑠樺は笑顔に戻っている。ミルクを紅茶に溶かしたような色の髪が真っ白なシーツに何本か落ちている。それを拾い上げて匂いを嗅ぐとうす甘い花のような香りで脳が満たされた。何やってるの、と瑠樺が微笑む。そうして俺はまた、瑠樺の口唇を吸うのだ。

 突然、肩を叩かれる。ここは誰も知らない場所だ。細心の注意を払ってここで蜜のような時間を過ごすと決めた。誰も知らない、誰も止めようのないこの場所で。驚いて振り向くと、そこには瑠樺と比べるべくもない、貧相な少年がいる。目は落ち着きなく泳いでいる。

「もうこれで最後にしようよ」

 少年は声に怯えの色を滲ませて言う。

「最近律は怖いよ。最初は練習のはずだったじゃん。俺も強く言わないからいけなかったんだろうけど、最近怖いし気持ち悪いよ。もう俺やりたくねえよ」

「だめ」

 瑠樺の指が顔に絡みつく。瑠樺は俺の下で相変わらず笑みを浮かべていた。

「りっちゃんは一緒にいるんだよ。瑠樺を大事にするんだよ。だからだめ。振り向いたりしないで」

 当然だ。俺は瑠樺を一生大切にする。瑠樺とここで溶けて、どちらがどちらなのか分からなくなるまで溶けて、そうして瑠樺になりたい。瑠樺の瞳をじっと見つめる。瑠樺も俺を見ている。

 目の前に火花が散る。あの貧相な少年がやったのだろうか。衝撃が頭蓋骨を伝わって顎が揺らされる。視界が歪み、目からとめどなく涙がこぼれる。振り向くと少年が数人の男を引き連れて立っている。連れの男たちの顔は曖昧模糊として霧がかかったようだ。しかし嘲り、怒り、そんなものだけは嫌と言うほど伝わってくる。彼らの手を見て納得する。皆手に棒状のものを持っている。それで俺を打ち据えたのだ。

「気持ち悪いんだよオカマヤロー。二度と学校来んじゃねえぞ。写真もばらまいたからな」

 貧相な少年が貧相な顔を歪めて笑う。その目にはもう怯えや不安感はなかった。何故か俺は安心する。彼が今楽しいなら、俺はそれで幸せなのかもしれない。打たれた場所がじくじくと痛む。そこから垂れた液体を舐めると塩辛さが心地よい。地面の冷たさを頬に感じながらひたすら幸せに浸る。

「だめ」

 瑠樺が俺の首に手をかけている。

「りっちゃんは一緒にいるんだ。瑠樺を大事にするんだ。振り向くな」

 そう。瑠樺を大事にする。それが俺の命題なのだ。一生の。瑠樺は言わば俺なのだから。瑠樺がいなくては俺はいられないのだから。もう瑠樺になることに一切、なんの迷いもない、それでしか誰も救われない。

 瑠樺が口を大きく開けて俺を迎え入れようとしている。美しい犬歯が当たると動脈はプツリと裂けるのだろうか。赤い舌が炎のように揺らいでいる。胃液さえも甘く香るのだろうか。

「何を寝ぼけたこと言ってるんだ。お前はもうここにはいられないんだ。お前だけじゃない。俺も、母さんもだ」

「どうしてこんなことに……あなた普通だったじゃない。普通に生きてきたじゃない。なんでこんなことするの?そんなに私を苦しめたいの?」

 振り向くと父と母だった。暗い顔だ。心がちりちりと焼け焦げていく。暗い顔をしても仕方ないのに。魚が陸で暮らせるだろうか。きっと分からないだろうが、あなたたちが期待しているのはそういうことなのだ。

「もうお終いね。どうやって生きて言ったらいいの明日から……」

「当面あっちで生活することにした。ちょうど親父の具合も悪いしな。昨日移動願いを提出してきたよ」

「本当にどうしたらいいの、私はもうあんなド田舎で暮らすしかないの」

「そんなこと言ったって仕方ないだろう!俺だって嫌だ、どんなに努力して東京に出てきたと思ってるんだ!」

「あなたごめんなさい……ごめんなさい……でも自信がないのよ……私がこんな……を…んだから……」

「強く言って悪かったな……5年、いや10年いれば……」

 父と母は暗い顔をして、時折声を荒げながら煩わしそうにこちらを窺う。魚どころではない、あなたたちにとって俺はバケモノなのだ。バケモノですらないかもしれない。胸に後悔が押し寄せた。すみませんでした。頭を何度も床に打ち付けるがバケモノの謝罪はあなたたちには届かないのだった。それでもひたすら打ち付ける。何度も、何度も。


「製造責任というものがありますから」

 やけに通る声が鐘のように響いた。同時にねっとりした快感も、塩辛い幸せも、床に打ち付けた額の痛みすらも消えていく。

「ああすみません、こちらの話です。あなたがたを責めているわけではありませんよ」

 そうして俺はやっと認識することになる。全身をきつく縛られ、床に転がされていることを。

 目の前には白装束に身を包んだあの女がいた。これがイミコとかいうやつの恰好なのだろうか。次第に視界がはっきりしてくる。室内。板張りの床。白漆喰の壁。窓が6つ。外は暗い。俺は底が六角形の建物がどこか寒々しい場所にぽつんと建っているのを想像する。

 俺とイミコを囲うように柱が立ち、そこに注連縄が張られている。両親、それにあんずまでがその外側から俺の方を見ている。

 そんなことはどうでもいい。

 ――瑠樺はどこだ――

 辺りを見渡そうと踠いても、首まで固定されているため叶わない。

「そんな顔をなさらなくても、もうすぐここに来ますよ。もっともなにもせず会わせるわけにはいきませんが」

 イミコは振り向いてあんずに向かって何か短く怒鳴った。あんずは頷いてチョークのようなもので周りに円を描く。そしてせいぜい直径5mほどしかないであろうその中に俺の両親を引き入れた。

「そこから決して出てはなりませんよ……ほら、おいでなさった」

 注連縄にかけられたすべての鈴が鳴っている。ずるずると音を立てて何かが這い寄ってくる。




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