鬼灯

 瑠樺に昨日出迎えられなかったことを謝りたかった。玄関に咲いた花や、あの扉を叩く何かが夢でも現実でも。しかし登校しても瑠樺はいなかった。瑠樺に会えなかったことだけは事実だ。

 その日は人生で一番退屈だった。

 退屈しのぎに昼休みと五限と放課後にあんずを抱いたのに、なににもならなかった。なにもかも瑠樺には遠く及ばなかった。

 そんな日が一週間も続いた。相変わらず学校の田舎者はこちらに触れてこない。瑠樺のいない俺は路傍の小石のようなものだ、前のように。そう、ここへ来る前のように。俺は考えるようになった。瑠樺は最初からいなかったのではないかと。俺が考えたひどく美しい生き物で、だから俺に都合よく振舞うのではないかと。あんずが言っていた通りだ、嘘臭い、俺のために美しい、そんな――

「おい」

 鋭い声と共に、隣を歩いていたあんずが突き飛ばされる。あんずの甲高い悲鳴が脳に刺さり、俺はようやっと前が見えるようになった。

 背が高く筋肉質な男が俺の方を真っすぐ向いている。顔は逆光で真っ黒に潰されていた。男はあんずの顔を鷲掴みにして、

「これが『今回の』か?」

 質問の意味が全く分からず固まっていると男は野太い笑い声を上げた。

「悪くない。悪くはないが、なんだ、随分ヘボだな、今回のは。お前こんなのが好みなのか?」

「それは違いますよ、礼本あやもとさん」

 男のものであろう黒いバンから小柄な女性が下りてきて言った。

「あなたには確認を頼んだだけのはず。手を出すことは許可していません。離しなさい」

 目が大きく、猫のような可憐さのある美人だった。体格や甘い顔に似合わない威圧感を備え、冷たい瞳をしている。彼女はため息をついて、

 「あなた、一体何をやっているの」とあんずに言った。

 あんずの方を見ると、礼本に突き飛ばされた姿勢のまま俯いて唇を震わせている。いつもやや智慧足らずにふにゃふにゃ笑っている彼女からは想像もつかない表情だった。

 女はその冷たい目線を俺に定めて口角をわずかに上げた。

「あなたが相馬律さんですね。私は森山神社のイミコを務めている中山りんごと申します」

 森山神社。イミコ。中山りんご。言葉が耳を通り過ぎていく。そういえば小高い場所に古びた神社があって、そこからだと村が見渡せるのだと父が言っていたかもしれない。俺は黙って「イミコ」の次の言葉を待った。

「相馬さん、あなたは腹磯のアレに魅入られている、そうですね」

 今度は言葉の意味がしっかりと脳に焼き付いて、同時に耐えがたいほどの怒りがふつふつと沸いてくる。瑠樺のことだ。こいつは瑠樺のことを「腹磯のアレ」と呼んでいる。綺麗な顔をしていてもやはりこいつは下らない迷信を信じて瑠樺を迫害する田舎者だ。

 怒りと同時に何故か安堵もしていた。瑠樺は俺の作り上げた妄想などではないのだと。あの美しい瞳も声も柔らかな唇も甘い肌も白い脚も潤んだ粘膜も全て――

「その沈黙は肯定と見なしていいのでしょうか」

 イミコの声が冷たく思考を切り裂いた。

「分かりませんね、なんのことだか」

 俺は努めて平静に答えた。イミコの瞳は俺の答えを聞いても冷たく凍っていた。

「りんごちゃん、そんなお堅く聞かなくてもこう聞きゃ一発だ」

 それまで黙っていた礼本がにやにやしながら近付いてくる。彼は俺の前に立ちはだかると、気持ち良かったか?と一言一言区切るように口を動かした。

「あれはお前の欲しいものを欲しい姿で与える。なあ、気持ち良かったよな。毎日毎日ヤってんだろ、お前も」

「違うっ」

 顔が熱を持っているのが分かる。そのまま発火して、この下品な男を焼いてしまいたい。そんなふうな関係ではない。瑠樺は美しい。そんな下品な言葉を美しい生き物に浴びせることは許さない。瑠樺は俺の美しい生き物で、訳知り顔でこんな男が語っていいようなものではない。

「何が違うんだよ。お前がアレとベッタリなのはシモに負けてるからだろ」

「下品な妄想だ!好きだから……愛してるから」

 礼本は鼻で笑って、

「愛してる?じゃあどこが好きなんだ?体と顏だろう、それ以外であるのか」

「笑うんだ。俺がなにか話すと泣きそうな顔をして、そのあと太陽みたいに……俺はそれを見て胸が締め付けられるんだ、大事にしてやりたいって思うんだ」

「それはお前がアレにゾッコンだからそう思うだけで、好きになった理由にはなんねえよ」

 拳を振り上げて礼本を打とうとしたが、簡単に手首を掴まれ、逆にひねり上げられてしまう。

「アレは俺のだ。俺だけじゃない、よそからここに来た男全員のお下がりだぞ」

「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい」

 耳を塞いでしまいたかったが、掴まれた手首がそれを許さなかった。礼本は滔々と語る。瑠樺がどんな声で鳴くか、どんなふうに腕を絡ませるか、どんなふうに舌を使うか、どんなふうに受け入れるか、どんなふうに。

「口でするのもなかなかだろう」と言って礼本は目を細める。俺がしつけたんだと自慢気に頷きながら。

 俺は嘔吐していた。礼本が吐瀉物を避けるように飛び去り、手首が解放される。そのまま地面に膝をついて、胃の中が空になるまで吐いた。

 頭には「お下がり」という文字が漫画のオノマトペのように浮いて、点滅して、こびりついた。そうだ、瑠樺は。初めてのときもすんなりと受け入れて。大勢の名も知らぬ男たちと蛇がのたうつように絡まり合う瑠樺を想像する。お下がり。きっとそこでもあの美しい犬歯を見せてねだったかもしれない。お下がり。白い濁流が脳を侵していった。お下がり。

 散々吐いて胃液も出尽くした頃、あいつはそんな男じゃない、と呟いた。誰に聞かせるわけでもなく、自分を鼓舞するための言葉だった。瑠樺が何人と交わっていようと、誰にでも股を開く阿婆擦れのように表現される、そんな男ではない。瑠樺は世界で一番美しいのだから。

 意外なことにその一言で礼本の顔色が変わった。何の表情もなかったイミコでさえ驚きが顔に出ていた。不快な二人組の動揺を見て、少し気分が軽くなる。

「男?今回のアレは男なのか?」

「……そういうこともあるのでしょう」

 ふたたびイミコを見ると、仮面が張り付いたような元の顔に戻っていた。

「アレは花を咲かせたと聞きました。相馬さんは何を捧げたのですか」

「あいつをアレと呼ぶのはやめてくれ」

は花を咲かせましたね」

 イミコは顔を歪めていた。

「ああ、呼ぶのも嫌だ。早く答えなさい。大事なことなのです。あなたは何を捧げたんだ」

「何も捧げてなんかいない」

 気迫に気圧されて思わず素直に答える。やはりあの花を咲かせたのは瑠樺なのだろうか。しかし俺は瑠樺に何も渡していない。金も食べ物も。そのあと一回も瑠樺と会っていないのだから。

「嘘を吐くな!」

 思い切り頬を張り飛ばされ、再び地面に転がることになった。礼本は先程のにやついた笑みを消して、歯をぎりぎりと食いしばっていた。

「アレは一定以上精を吸い取ると花を咲かせるのですよ。アレがどうして花を咲かせるのかは分かりませんが、タダで、というわけにはいかないようです」

 イミコは礼本の顔に手を伸ばし、指三本をピンと伸ばした。そしてそれを目にまっすぐ突き入れる。思わずあっと叫んだが、血の一滴も滴り落ちることなくぽとりと眼球が落ちた。イミコは眼球を両手で持って、俺の目の前で手を開いた。

「彼は目を奪われました」

 光を反射してぬらぬらと光るそれは、確かにガラス製のようだった。

「め、みみ、はな、したのね、はい、いのふ、はらわた、そして――アレはどれかを奪います。捧げるころにはほとんどの人間が傀儡のようにアレの言うことを聞くようになるので何一つ疑問に思いません。そして幸せに、幸せに死んでゆくのです。アレに脳を穢されたまま。礼本さんは片目を抉られた痛みで正気に戻って火箸でアレを焼いたのだそうです。……いずれにせよ、何も捧げていないのは奇妙ですがよかった、本当に何も捧げていないのですね」

「ああ」

 様々な情報が俺の脳を行ったり来たりして、発熱しそうだった。曖昧に相槌を打つことしかできない。

「でしたら、やることはひとつです。早くこの村から出なさい」

 女はまた少し口角を上げている。死にますよ、と言う声が何もない草地にこだました。


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