薫衣草

 十一月にもなるとさすがに寒くなってくる。東京で気候をあまり意識したことがなかったが、森山郡は東京よりずっと寒い気がする。朝起きて息を吐くとたまに白い。

 祖父の具合は相変わらずだった。もうこれ以上良くも悪くもならない。しかし俺は熱心に看病をした。祖父が生きている限り俺は森山郡に滞在できる。瑠樺と一緒にいられる。瑠樺を抱ける。

 俺たちは完全に排除された存在なのだ。授業に出ていようといまいと、あるいは校舎にいようといまいと、誰も文句を言う者はいない。俺たちは保健室で、体育館で、校舎裏で、何度も体を重ねた。瑠樺は抱くたびにより美しくなるようだった。抜けるように白い肌が桃色に染まっていくのを眺めるのが好きだった。長くて細い脚が体に絡みつくのも、射精したあと呆けて天井を見る瞳も、全てが美しく、その度に俺は瑠樺と死にたいと思うのだった。

 その日瑠樺が俺の腕の中で

 「日曜日あそびにいきたいな」

 と言った。

 瑠樺は随分言葉が滑らかになった。栗色の毛とその顔貌から、前々から東洋の血が薄いのかもしれないと思っていた。しかしその一番の理由は容姿ではなく拙い言葉遣いと不思議なイントネーションだ。標準語でも森山郡の方言でもない、日本語話者ならまずしないような音節で発声する。不思議には思ったが、不快ではなくむしろ魅力的で、矯正してやろうなどという気には全くならなかった。しかしセックスの合間合間に俺とどうでもいい話をした――尤も俺が一方的に話しかけていただけだが――からだろうか、徐々に彼の言葉は標準語に近付いているような気がする。

 「日曜日にあいたいよ」

 「もちろんいいよ、どこに行こうか」

 俺は少し驚いていた。こうして瑠樺が遊びに誘ってくるのは初めてのことだ。俺はいずれ東京の高校に戻るために休日は勉強に時間を当てており、瑠樺とどこかへ行くという発想はなかったが、瑠樺が望むなら話は別だ。瑠樺より優先順位の高い勉強などない。それに今は、森山郡に永遠に滞在したいとすら思っている。

 「りっちゃんのいえがいい」

 瑠樺は俺の腕に細い指を絡めて微笑んだ。瑠樺は最近、俺を『りっちゃん』と呼ぶのがお気に入りだ。


 その週の日曜は大変都合が良かった。父は会社の付き合い、母は東京にいる母の親戚の集まりで出かけており、夜まで帰らない。家には祖父と俺、二人きりだ。

 俺の看病の甲斐あってなのかは分からないが、祖父もいつになく顔色が良かった。と言っても、コミュニケーションを取るのはかなり難しいのだが。祖父は長年の喫煙からCOPDを患っており、常に酸素吸入器のチューブを鼻に通している。体調を崩して以来徐々にボケてしまったのもあって、音声の面でも認知の面でも会話は非常に困難だ。そのこともまた、都合が良かった。瑠樺が来ても、瑠樺と俺が何をしていても、祖父が何か言ってくることはないだろうから。

 瑠樺との約束は午後一時だ。軽い昼食を食べて、それから――さすがに祖父がいる場所でセックスするのはまずいかもしれない。しかし、瑠樺に会える。いつもは会えない場所で。心が躍っていた。興奮が過ぎて前の晩によく眠れなかったためか、朝食のあと眠気に襲われ、気付くと時計は約束の時間の30分前を指していた。

 「おじいちゃんごめん」

 急いで祖父の食事の準備をする。さすがに祖父に食事をやらなかったなどということがあってはならない。母の用意した、誤嚥しないようにとろみをつけた食事を祖父の口に運ぶ。祖父は黙ってそれを咀嚼した。祖父の目は白く濁って生気がなく、俺は祖父に顔を近付けるこの作業が好きではなかった。食器が空になると祖父は口をかすかに動かす。ほとんど聞こえないが、すまない、と言っているようだ。その後訪問診療の歯科医に言われた通りたらいを持ってきてやって、体を起こしたまま歯を磨かせる。食べかすが口の中に残っているとそれも誤嚥の原因になるそうだ。虚ろな表情の祖父を見ながら、瑠樺のことを思い出した。動きが緩慢で死を待つばかりの老人と、輝くような笑顔の少年。生と死。部屋には祖父の含嗽の音が響いた。俺は祖父の口の周りを丁寧に拭く。

 ふと、呼び鈴が鳴った。田舎の人間は呼び鈴など鳴らさず勝手に扉を開けて入ってくる。おそらく瑠樺だろう。画素数の粗いモニターに白い人影が映っている。嬉しくなって立ち上がろうとすると手首を掴まれた。

 「出てはならね」

 祖父の声は掠れきっていたが、地面から涌き出たように響いた。濁った目に燃えるような力を宿して、こちらを見上げている。

 「あれは呼ばれねば入れね、出てはならね」

 「なんでだよ……あれは友達で」

 祖父の手を振り払おうとしても骨ばった手ががっちりと食い込んで離れない。弱弱しく、一人では移動することもままならない老人とは思えないほどの強い力だった。

 その間にも呼び鈴は連続的に鳴り続けている。確かにおかしいかもしれない。子供のいたずらのように何度も――唐突にそれが止んだ。不気味な静寂が訪れる。

 「……瑠樺か?」

 玄関に向かっておそるおそる問うてみる。わずかな沈黙の後、それは言った。

 「りっちゃん、あけてー」

 瑠樺の声だ。何度も聞いた、一瞬で人を虜にするあの美しい声だ。

 「りっちゃん、あけてー」

 「入れてはならね!!」

 祖父が大声で怒鳴る。

 「お前の来るとこでねえ、帰れ!!」

 ――ガタン、ガタガタ

 玄関の扉が揺れる音がした。

 「りっちゃん、あけてー」

 何故瑠樺は、

 「りっちゃん、あけてー」

 玄関の鍵は開いているのに、

 「りっちゃん、あけてー」

 入ってこないのだろう。

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」

 「りっちゃん、あけてー」 


 湿ったような臭いで目を覚ます。気付くと俺は祖父に抱きかかえられるような恰好で寝ていた。外は暗くなっている。はっと飛び起きて時計を見ると、7時を回っていた。

 「おじいちゃん」

 祖父はぐっすりと眠っている。死んでいるのかと思ったくらいだ。もう7時だ、祖父の晩御飯、それより、瑠樺は、瑠樺は、頭が割れるように痛い。

 ――ガタン

 玄関でまた音がして、心臓が跳ね上がる。

 「りーつー、ただいまー!」

 明るい女の声。母だ。

 「あらっ!やだー、律、あんたお義父様に夜ご飯食べさせてないでしょ!」

 「ごめん……寝ちゃって」

 「もう、気を付けなさいよ」

 忙しない母の挙動に安堵しながら、朝感じた強烈な眠気を思い出す。そうだ、全て夢だったのかもしれない。おそらく俺は祖父に歯を磨かせたあとふたたび寝入ってしまったのだ。瑠樺は俺が寝ていることに気付いて出て行ってしまったのだろう。その方がずっと辻褄が合う。

 母は食事の支度をしながら何かを思い出したかのように手を打った。

 「そうだ、玄関見てみてよ。いたずらだと思うけどすごいのよ、綺麗で」

 もしかしたら瑠樺が何かメッセージを残していったのかもしれない。そう思うと申し訳なさが溢れた。明日学校で謝らなくては。言われたとおり土間に降りて扉を引いた。

 「すごいでしょー、誰がやったのかしらね、お花畑みたいよね」

 母の声がやけに遠く聞こえる。門から扉まで隙間なく、花が敷き詰められている。目を凝らして気付く。違う。これは置いてあるんじゃない。地面から生えているのだ。にわかに心臓が速く脈打った。反対に体温が下がっているのが分かる。

 街灯のない田舎で月に照らされる色とりどりの花は、ひたすら美しく、不気味だった。




 







 




 



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