麝香撫子

 高遠瑠樺が来てから環境が一変した。これまで毎日しつこくまとわりついてきた連中がすっかりいなくなったのだ。俺はあの田舎者たちが高遠瑠樺にターゲットを変更すると思っていたのだが、そうはならなかった。何故か俺と高遠を見ると気まずそうに去っていく。しつこい付きまといから解放されるのは願ってもないことだが、この態度の急変は不愉快だった。

 ふと、最悪の想定が頭をよぎった。高遠瑠樺を見つめていた――正確に言うと、見つめあっていたのを誰かに見られ、ホモだと思われたのではないだろうか。東京の学校ではホモだとかレズだとかトランスジェンダーだとかはもう、ネタにすることはあっても虐げる対象ではないけれど、ここは田舎だ。そういう人々を差別する土壌が未だにあってもおかしくない。なにより恐ろしいのは田舎における噂の拡散の速さだ。近所に住むナントカさんの息子が本来仕事をしているはずの時間にレンタルビデオ店にいたなどという些末な情報まですぐに広まるのだ。あっという間に両親の元に届いてもおかしくない。それに伴って家族全員が嫌がらせを受けたりすることもあるかもしれない。先の長くない祖父も……ネットで読んだ未だにある村八分の記事を思い出して頭が痛くなった。

 そもそも俺はホモではない。高遠瑠樺があまりにも美しかっただけだ。男であっても目を惹くほどの美しい人間と言うのはたまにいる。彼はまさにそれだったのだ。

 それに、俺がホモではないということが少なくともこの学校の生徒には確実に知られているはずなのだ。俺は入学してすぐ、学校一の美人とされるひと学年上の中山あんずと寝ているからだ。中山あんずは確かに森山郡の人間にしては見られる容姿をしていた。ティーン雑誌の読者モデルの仕事も何回かしたことがあるらしい。しかし彼女が有名だったのはむしろ誰とでも寝る女として、だった。あんずは毎日積極的に誘ってきた。娯楽がなくて退屈していたのは俺も同じだった。

 「りっちゃん」

 あんずの肌を思い出していた時にちょうど本人に話しかけられて動揺してしまう。あんずはそのまま俺の腕にしがみつき、白い歯を見せて笑った。

 「どうしたの、難しい顔して。一緒に帰ろ」

 「あんずさんは」

 「さんはいらない、あんずでいいって何度も言ってるでしょ」

 「あんずは、俺を避けないんだな」

 あんずは頬を俺の胸に押し付ける。甘い香水の香りが鼻腔を抜けた。

 「避けられてる理由知りたい?」

  俺が頷くと、あんずは人がいないとこに行こうと言って俺を校舎裏に引っ張って行った。

 「高遠瑠樺だっけ、りっちゃんのクラスに来た転校生」

 周囲には誰もいないというのに、あんずは囁くような声で言った。

 「あの子、腹磯はらいそ緑地から来たんでしょ。腹磯から来た子とは、話しちゃダメなの」

 それを聞いた途端、俺の心に田舎への激しい嫌悪感が再びよみがえった。こんな狭い地域の中での差別。ネズミを多頭飼いするとやがていじめられる個体が出てきて、その個体を除いても、また別の個体がいじめられるようになる。こいつらはケージの中のネズミのようだ。腹磯緑地というのは、ここに来てすぐの時に訪れた、ハナズオウという赤紫の花がたくさん生えている場所だ。俺たちが住んでいる場所からは車で20分ほどかかる。父はこの景色を見ると田舎も悪くないと感じる、と言っていた。確かに観光ガイドブックに載っていないのが不思議なくらい迫力のある景色だった。悪く言えば、花以外何もない場所。しかしそれが差別の原因になるのは不可解だ。何もなさでいえば、正直大して変わらないというのに。

 「住む場所で差別するのか」

 「違うよぉ」

 あんずは慌てた様子で続けた。

 「腹磯から来た子はね、カミサマっていうか、そういう感じなの。話すと連れてかれちゃうんだって。だから話したらダメなの、そういう言い伝え」

 「はあ?」

 俺が嫌悪感を隠さずに声を上げると、あんずは悲しそうに俯いた。

 「東京から来たりっちゃんは馬鹿みたいって思うかもしれないけど、ここではすごく大事なことなの。何年かに一回腹磯からカミサマが来て、気に入った子を連れてっちゃうって。それで、それで、次の年は豊作になるの。勿論あたしはあんまり信じてないよ、だからりっちゃんとは話すし」

 俺の態度は、大事な言い伝えに背いてまで一生懸命話しかけてくれるあんずに対して失礼だったかもしれない。そう反省してごめんと呟いた。

 「俺とは話してくれるのに高遠とは話さないのか?あんず、イケメンが好きって言ってたじゃん。高遠は相当イケメンだと思うけどな」

 少しふざけて言うと、あんずは大きく首を横に振った。

 「あたしはずっとりっちゃんにマジで恋してるって言ってるじゃん。りっちゃん、あたしが皆にヤリマンって言われてたとき、庇ってくれたでしょ」

 そう言えばそんなこともあった。しかし、それは俺が「ヤリマン」とかいう下品で田舎臭い言葉が嫌いだっただけなのだが。そんなことをいじらしく覚えているあんずが途端に可愛く見えて、俺はあんずを抱きしめた。あんずは今日変な下着履いてるのに、と口だけで抵抗した。



 ことが終わるとあんずは俺の背中にもたれかかりながら言った。

 「高遠瑠樺がイケメンってりっちゃんは言ったし、あたしの友達もびっくりするほどきれいだって言ってる。でもすっごく嘘くさいってあたしは思う」

 「嘘くさい?」

 「そう、なんか好かれるためにきれい、みたいな。ごめん、あたし馬鹿だから、あんま分かんないよね」

 俺は黙ってあんずの頭を撫でた。彼女は学校一の美人だと言われているのだ。自分が他人より可愛いという自覚もあるのだろう。相手が男でも、対抗心のようなものから嫉妬もするのかもしれない。

 それでも高遠瑠樺は美しい。あんずを抱いている最中、同じことを高遠瑠樺にしたらどんな反応をするかとずっと考えていた。

 高遠瑠樺は美しい。世界で一番、美しい。


 

 

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