女郎花

 高遠瑠樺たかとおるかが転校してきたのは高校一年生の秋だった。担任の松田先生に連れられて教室に入ってきた彼に目を奪われたのは俺だけではなかったように思う。あまりにも美しかったのだ。

 俺は中学まで東京都の渋谷区に住んでいた。中学を卒業する少し前、父方の祖父が体調を崩し、医師に余命一年と診断された。最期を自宅で迎えたいという祖父の希望を尊重したいが、祖母はもう10年も前に亡くなっており、父以外に頼れる親戚がいなかった。ごく小さいころは夏休みになると遊びに行ったものだが、小学校に上がったころには全く寄り付かなかった。祖父は何度も贈り物やお金を送り、遊びに来てくれと連絡を寄越したのに、俺はそれより楽しいことに夢中だったのだ。その罪悪感も手伝って、俺は引っ越しに反対しなかった。そういうわけで俺は、親の都合というやつで高校からこのド田舎、森山郡に越してきた。娯楽施設の少なさや、虫の多さなどはある程度予想通りだったが、俺を驚かせたのは田舎の高校生の汚らしさだった。地味グループの学生はまだ好感が持てた。ちょうど都会の人間が想像する純朴で垢抜けない田舎の学生像そのものだった。しかし「陽キャ」とされるグループの学生はどうだろう。揃いも揃って汚らしくまだらに髪を染め、ピアスをしている。制服をだらしなく着用して、廊下に座り込んで猿のように笑っていた。東京では最早けばけばしい格好よりも綺麗めにまとまった落ち着いた格好が主流だなんてこいつらは知りもしないのだろう。

 俺は東京ではありふれた存在だった。顔がそこまで良いわけでも、背が高いわけでもない。そこそこのレベルの私立の中高一貫校に通い、彼女は今までに二人。どちらもキスだけして別れてしまった。しかしここ、森山郡ではどうだろうか。俺は唐突に特別な存在として扱われたのである。「東京から来たの?すごい」「有名人に会ったことある?」「東京の人はオシャレだね」「東京の人は」「東京の人は」「東京の人は」「東京の人は」心底うんざりしていた。女はやたらと俺を持ち上げ、積極的に性交渉を迫ってくる。ド田舎の特徴だ。他にやることがないのだ。男はといえばヘラヘラとまとわりついてきて、お零れを貰おうという魂胆なのか必死に話しかけてきた。勉強は驚くほど遅れていて、簡単で、退屈で仕方ない。所詮期限付きの付き合いだと腹を括って付かず離れず接していたが、内心では汚らしく馴れ馴れしい田舎者たちが、この環境自体が心底嫌だった。

 そういうわけで転校生、それも男が来ると聞いて、もしかしたら何の変哲もない存在になれるかもしれないと思って安心していた。彼らも退屈な生活の中で刺激を求めているだけなのだ。新しい何かが来れば、俺のことなど忘れるだろう。

 松田先生は、やけにゆっくりと高遠瑠樺の名前を黒板に書いて、さらに一呼吸置いてから、

 「高遠は腹磯緑地に住んでいる」

と言った。

 空気が凍る。そうとしか表現できないほど張りつめている。高遠瑠樺が教室に入ってきた瞬間のひどく美しい人間に対する感嘆から来る沈黙ではない、仄暗い沈黙。見ると、高遠に目を奪われていた人間のほとんどが、今や打って変わって机に目を落としている。

「仲良くするように……席は相馬の隣だ」

 俺の隣に座っていた正岡愛菜は文句の一つも言わず、左端の空いた机に移動していった。何故、その机に高遠を座らせなかったのか。しかしその当然の疑問を口にする者はいなかった。

 高遠瑠樺がこちらに向かって歩いてくる。長い足をクロスさせるような、独特な歩き方。それさえも美しかった。神というものがいたら、こういう歩き方をするのかもしれない。先程まで正岡愛菜が座っていた席に腰掛けると、俺の顔を見て、

  「相馬くん、これからよろしくね」

と微笑んだ。

  何も言えなかった。綺麗すぎて、本当に綺麗だった。近くで見ると幅の広い大きな目が輝いていて、鼻が真っ直ぐで、艶のある唇がふっくらと盛り上がっていて、その下に色っぽい黒子があって、なにより肌が、透き通るように真っ白で。これほど胸が高鳴ったことが無かった。心臓が鷲掴みにされているみたいだ、痛い。今までこんなに長く他人の顔を見つめたことも無かった。男の首筋に浮き出す血管を数えたことも、くっきりと白い喉仏に噛みつきたいと思ったことも無かった。授業は始まっていたのだろうが俺と高遠の空間だけそのまま切り取られたかのように、何も聞こえなかった。高遠も決して俺から目を逸らさなかった。

 高遠瑠樺は美しい。世界で一番、美しい。



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