第7話 浴室の攻防
その日の夜、サダオは、購入してきた錆取り製品を全て風呂場に持ち込んだ。大量に買ってきた製品達が、洗面所に乗り切らなかったせいもあり、全製品を用いて、風呂場で一気にかたを付けようと思ったのだ。
ちなみに、サダオがこの家の風呂場に入るのは、これが二回目であった。引っ越してきた当日に、各部屋を見て回った時に入って以来である。ニーウ星人は風呂に入る習慣が無いのである。調査の一環として、風呂に入ってみるという選択肢は有るには有ったが、ラーメンを一気飲みしても問題無い程度の耐熱性を誇るニーウ星人にとって、湯で温まるといった感覚は得られず、風呂の醍醐味というものは全く理解できないのであった。
しかし、地球人、特に日本人は風呂が好きだと聞いていたが、彼女も全く風呂を使っている形跡が見られない。それもまた、地球人の多様性ということなのか。
サダオは全裸状態になり、錆びた包丁を片手に、風呂場へと入った。
風呂場の床は、紺やら水色やらの、大小様々な形の丸タイルが敷かれており、まるで細胞の断面図のようだった。
サダオは、カランの前に座り込み、錆取り用品を自分の左手やや後方にまとめて置いた。
まずは、カランから湯を出して、包丁の表面を流してみる。が、やはり、湯をかけた程度では錆は取れない。
液状のクレンザーを試してみるか。
湯で包丁の表面を流したまま、サダオが左手を左方に動かした時、サダオは異変に気付いた。包丁を伝って、足元に流れ落ちる湯が赤いのだ。
湯で錆が落ち始めたのだろうかと思い、しばら見守っていると、自分の足元がどんどん真っ赤に染まっていく。
猛烈な勢いで錆が落ちていることに気を良くしたサダオであったが、すぐに異変に気がついた。包丁をよく見ると、錆が全然落ちていないのである。そして何よりも、カランから出ている湯そのものが赤いのだ。
ほほう。このような色鮮やかな湯が出ることもあるのだな、とサダオは感心した。そう言えば、アヤの白い服にも、これと同じような色の染みができていた。
先日、昼間に遭遇した時には、まるで濡れていたかのように、ぬめりのある光を放っていたことを思い出した。
ということは、アヤはあの服を来たまま、この赤い湯を浴びたのだろうか、などと考えを巡らせていると、真紅の湯の表面に、少しつづ黒い曲線が混ざり始めた。
長い髪の毛だ。どこから流れてきたのか、髪の毛の数は見る見る間に増えていき、排水溝を塞いだ。
逃げ道を失った湯は、少しずつ浴室に溜まっていき、浴室を赤い湖へと変えていった。サダオの左手に置いてあった錆取り用品も、あるものは湯に浮かび漂い、あるものは湯に没し、見えなくなった。
このままでは湯が洗面所に溢れ出してしまう。サダオはカランの湯を止めた。
とりあえず、今、溜まっているお湯を使って、錆取りだけでも行ってしまおうか。サダオがクレンザーの容器を手に持ち、包丁に垂らそうとした瞬間。
バチン!
辺りは暗闇に包まれた。浴室の電気が消えたのだ。窓から差す明かりで、薄っすらと浴室内の様子を見ることはできる。何事かと辺りを見回したサダオは、自分の右方に違和感を覚えた。サダオの右には、浴槽がある。浴槽に湯は入っておらず、空である。その空であるはずの浴槽の中に、彼女が立っていた。
彼女は、今日も血で染め上げたようなワンピースを着ているらしいが、薄闇のため、その染みは黒く見える。最初に出会った時と同様、漆黒に塗られた顔の中で、血走った目が睨めつけている。しかし、その視線はサダオの腰の辺りに向けられているようであった。
サダオは、地球人の裸体、特に男性の象徴に関しては自信が有った。数百、数千にも上るサンプル映像を入念にチェックし、サダオに化けた時にも、完璧な造形に練り上げたのだ。
何ら不審な点はあるまい。そう確信したサダオは、まるで、下腹部のそれを見せつけるように、堂々と彼女と向き合った。
サダオが、自らの矜持を賭した戦いに身を投じてから数分が経過した。両者、微動だにせず、無言の主張が続く。膠着状態である。
火花が散るような緊張感の中、彼女がどう出るか、つぶさに観察を続けていたサダオが気付いた。彼女が見ているのは、サダオ渾身のそれではなく、右手に握られていた包丁であることに。試しに、サダオが包丁を持った右手を動かしてみると、彼女の視線は、明らかにそれを追った。
彼女が包丁に執着しているのは分かっていたが、一体、何だというのだろう。今宵、包丁が磨かれることに感謝の意を表しているのか、はたまた、この包丁はそのままにしておけという威嚇であろうか。そもそも、何か言いたいことがあるのであれば、直接言えば良いではないか。何故、彼女は一言も喋らないのか。
様々な疑問が、サダオの頭の中に渦巻いたが、やがてひとつの結論に辿り着き、サダオは浴槽の縁に包丁を置いた。彼女が電気を消したのであれば、錆取りをして欲しくないということであろう。そう判断したのだ。そして、もし、彼女の望みが、包丁の現状維持であるならば、一度錆取りをしてしまったが最後、彼女との関係に決定的な亀裂が入ってしまう。錆取りは、やろうと思えばいつでも出来るのだ。今は、現状維持が無難であろうという安全策でもあった。
気が付くと、電気は点いており、彼女の姿は消えていた。足元に溢れていた湯は、無色透明となり、髪の毛の消え去った排水口に、ごぼごぼと吸い込まれていった。
「彼女が浴室に入ってきたんです」
「何!? 君も中々やるな。いつの間にそんなに親密になったのかね」
上司は嬉しそうに言った。
「いえ、まだそんなに親密にはなれていないんです。私はまだ彼女の声を聞いたことすら無いんですよ」
「……ふむ。すると彼女は、貞操観念が弱く、静かなタイプなんだな。親密でもないのに求愛してきて、交尾の最中にも声を出さなかったとなると――」
「交尾はしてませんよ」
「なぜかね!? オスとメスが浴室に入ったら、普通は交尾をするものだろう。まさか、臆したのか。彼女の方から誘惑してきたというのに」
この上司は、何故かこの手の話が好きで困る。異星生物の交尾に興奮を覚えるのだろうか。サダオは、説明するのも億劫に感じたが、こんな者でも一応上司なので、ことの顛末を説明した。
状況は理解してもらえたが、お前には調査員としての大胆さが足りない、と苦言を呈された。
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