第6話 錆を落としたくて

 翌朝、サダオは考えていた。地球人が物質を透過して移動できるとは想定外であった。そしておそらくは、重力の制御もしている。そうでなければ、あそこまで全くの無音で移動することは不可能であろう。何故、階段では足音がして、廊下では無音だったのか、それは分からない。地球人の重力制御能力の仕様であろうか。

 彼女がそのような能力を持っているのであれば、壁や床などは何の制約にもならない。彼女が寝室を自由に出入りできる理由が分かった。しかし、疑問も残る。では、戸や扉は何のためにあるのか。家具や各種装置の搬入のためであろうか。もしそうであるならば、地球人は、自らが物質を透過することはできても、物質に物質を透過させることはできないのであろう。また、過去の調査資料から察するに、物質透過ができない個体も多数居るはずである。むしろ、そういった個体が大半を占めるはずだ。つまり、彼女は希少種なのだ。

あのような個体と接触した調査員は、自分が初であろう。調査員としての血が騒ぐ。それにしても、地球人の多様性には驚かされる。彼女が希少種であるならば、是が非でも彼女とコミュニケーションを取り、その特殊能力について、何か情報を聞き出したい。

 サダオの中で、彼女の重要度が大幅に上がった。

 彼女は、やはりあの包丁に何か執着があるらしい。必要なら、再び天井裏に持って行ってくれても構わないのだが、自分が、その回収を邪魔してしまったのだろうか。

 サダオは、彼女が包丁を回収しやすいよう、洗面所の戸も開放しておくことにした。

 

 それから数日、またも変化が現れた。昼間、行きつけのラーメン屋から帰ってきたサダオが、玄関のドアを開けると、彼女が正に洗面所に向かうところに鉢合わせた。

 明るいところで彼女を見たのは、これが初めてであった。昼間の明るさの下でも、その顔には暗く影が差しており、表情を見ることはできない。そして、その時サダオは、先日の己の失敗を悟った。彼女が着ている白いワンピースに描かれた模様は、黒ではなく、赤だったのである。たった今、血で染め上げたように、ヌラヌラと湿り気のある光沢を放っている。

 色を間違えたことが、再び彼女の機嫌を損ねたに違いない。地球人は、外見を重視するのだ。己の失敗を取り返すべく、サダオは玄関の戸を閉めることも忘れ、深々と頭を下げて言った。

「アヤさん、先日は失礼しました。その赤い染み、とても素敵ですね」

 彼女は無言のまま洗面所へと入り、そして、洗面所では包丁がガチャンと音を立てる。

 今日も返事は無しか。サダオが、玄関のドアを閉めようと後ろを振り返ると、目を見開いた奥様連中が、サダオを見て固まっていた。

 まずい。何だか分からないが注目を集めている。しかし、こんな時に便利な言葉がある。サダオは、薄っすらと笑みを浮かべたまま、奥様連中をしっかりと見つめ、言った。

「すみません。病気なんです」

 奥様連中は固まったまま動かず、返事もしなかった。特に追及をしてこないところを見ると、彼女達も納得したのだろう。そう思いながら、サダオはドアを閉めた。

 ドアを閉めるなり、洗面所へと向かった。当然、そこに彼女の姿は無い。そして、流し台の横に置いてあったはずの包丁は、流し台の中に落ちていた。

 サダオが出かけていたため、という可能性も否定できないが、昼間に彼女が現れてくれたという事実は、確かな前進を感じさせるに充分であった。

 サダオは確信した。彼女と、少しずつ良い関係が構築され始めている。そして、その関係をより発展させるための鍵は、やはりあの包丁である。


 翌日、サダオは、近所のホームセンターの中に立っていた。錆落としの製品を購入しにきたのだ。ニーウ星の製品であれば、金属についた錆など瞬時に洗い落とせるのだが、調査本部が支給に難色を示したため、地球の製品を入手せざるを得なくなった。ラーメン屋の主人に相談したところ、このホームセンターを紹介されたのだ。

 ホームセンターは広大であった。ニーウ星に同サイズの施設が無いわけではない。しかし、地球製品に馴染みが無く、どの製品が何であるのかすらよく分からないサダオにとって、この中から錆取り製品を探し出すには、あまりに広大であったのだ。様々な製品を陳列した棚は、無限に長く、無限に並んでいるようにすら感じられた。

 この中から適切な製品を選び出すのは不可能に近い。そう判断したサダオは、店員に尋ねることにした。

「包丁の錆を取る製品を探しています。どこにありますか?」

 明朗そうな女性店員が答える。

「錆具合にもよりますが、どのくらい錆びてますか? 軽い錆程度でしたら、砥石で研ぐだけで大丈夫な場合もあります」

 どのくらいと問われて、サダオは一瞬戸惑ったが、思ったままを答えた。

「金属部分が全体に渡って赤黒くなっていて、表面には大きな凹凸ができている程度です」

 女性店員は、眉根を寄せながら、少しトーンを落として言う。

「そこまで錆びてしまっている場合、使える状態にまで戻すのはかなり大変だと思います。新しい包丁をお求めになってはいかがでしょうか」

 なるほど。この店員は、私が包丁を使う必要に迫られて来店したと思っているのだな。そう感じたサダオは、誤解されないよう、しっかりと説明しようと思った。

「いえ、包丁を使いたいわけではないのです。なので、新しい包丁も必要ありません。ただ、包丁の錆を落としたいだけなのです」

 使う必要も無いのに錆だけ落としたいとは、随分不思議なことを言う客である。骨董品か何かであろうかと、女性店員は感じ、興味本位でつい聞いてしまった。

「その包丁は、錆を落としてどうするんですか?」

 サダオは笑顔を作って言う。

「錆びた包丁を洗面所に置いておいたところ、夜な夜な、ある女性が現れて、その包丁を持っているようなんです。なので、包丁を綺麗にすることで、彼女が喜ぶのではないかと思いまして」

 もはや何を言っているのか分からなかったが、これ以上深追いするのは危険だと判断した女性店員は、やや小走り気味になり、錆取り製品の売り場へと、迅速に案内した。

 クレンザー、錆取り消しゴム、紙やすり、砥石、どれでもお好きなものをどうぞ、と言い残し、店員は去ってしまった。

 サダオは、言われたものを片っ端から購入することにした。

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